あとで読みかえすとあのときこういうことをしたなと、悲しみながら読むことになるのかどうかわからないけれど、故郷から7時間もかけて母をつれてきたあの日から、僕はいつかはこういうことを考えなければならないという日が来るとおもっていたわけで。

 

 救急搬送してもどってきてからの様子は、ぞれまでとはやはり違います、とプレザンメゾンの看護師さんが言う。夕方面会にいくと、前はみなさんと談笑している時間だったのだけれど、こないだは自室で寝ていた。そのあと何度か面会して、まあまあ回復もししているような面もあるのだけれど、全体右に下降する線をある形の上がり下がりをしながら、なにかいまどきの円安のグラフのような形をもって進んでいる。円安はどこかで止まって、平衡だか円高転じだかなにかになるんだろう。それはなにがしかの形で続いていくしかないけれど、命には最期がある。

 

  家でみてあげれなかったという罪悪感のようなものについて。。

  昨年僕は自分自身がもしかしたら膵臓系になにかあるんじゃないかという自覚があったので龍野中央病院で診てもらったのだった。実は気のせいくらいの結果でなにもなかったのだが、その先生に僕には高齢の母がいて心配故に今ストレスがあってという話をしたら、いろいろときいてくれる、いい先生だった。その病院の消化器の先生は。お年頃からして、きっとご両親を看取るとか介護するとかいうことも経験されている先生だったのかもしれぬ。 

  先生いわく、”今の核家族時代に家族で看ることには限界があって介護保険というものができたのだから。。”とそれはもちろん教科書的な説明でもあったけれど、診察の時間の中でいろいろと考えて会話してくれる先生とはあまり経験がなかったので(特に最近は)、またそのころまだ施設に母を預けてなくて、どこに入れば母は幸せかと考え考え悩み悩み生きていた僕にとって、袖振り合うも他生の縁というか、無関係な僕の話をなにか誠実な表情できいてくれた先生はありがたかった。

  というように感じるくらいそのときの僕は疲れていて、そんなことから体調も芳しくなくなっていたのかなと思う。こういうときに僕自身が倒れてしまうと誰もが困ってしまうわけで、そんなことを考えれば、どうにか粘ったあげくプレザンメゾンに入れてもらったことは、たぶん第一に僕にとってよかったのだと言うしかない。そうだ。それは僕にとってというしかない。けれども人は自分が一人で生きているわけではないので、僕が倒れてしまわなければ、僕は仕事に行って給料をもらい、孫と妻と母とを暮らさせてゆけるのであり、そんな普通の人間としての悩みとかを僕はこの普通にそういうことを経験しなくてはならない年齢になっいる。そこに個性もオンリーワンもなく、釈迦が言ったように全人にとって逃れられない命題として、生老病死ということが立ちふさがっていた。

 

 それで、本題としては、母がだんだん円安の曲線を描き始めているから、その時が来たときに、やはり他のみなさんにご迷惑掛からないように、僕が決めておかねばならないことを決め始めています。新宮の神父さんに葬式をお願いし、新宮のカトリック教会がいつも依頼している公益社に話をきいておき、遺体は新宮に搬送することになるから、その段取り費用、死亡届はどこに出す、火葬は住民票のあるたつのでなくてもできるのか、いろいろ。不安なことを全部クリアにしておかねば、そのときがきて僕が何も進められなくてうずくまって泣いてでもいたら、家族もまた兄弟も困るのであって、僕はまだ存命である母に面会しながらも、ある種冷静にいろいろなことを進めていっておかねばならないのだった。というわけであらかたのことはクリアにしてしまい、何がきてもこうしたらいいということについては覚悟と予算とスケジュールとを自分の中にもうだいたい組み立てた。

 

  必ずやらなきゃいけないことはやっておかねばならない。そういうやりかたをして僕は仕事をして生きて来たので、これもそうやっていくということなのかなと思いながら、とにかくやっておかねばならないことをやっておくのである。感情はストップしておかないと、事はすすまない。母が父を40年前に看取ったときに48歳であり、まだ養育せなばならぬ子が4人もいたのであり、そういう絶体絶命を母が生き抜いて僕(ら)を生かしてくれたのだった。その母が40年たてば88となり。いまどきプレザンメゾンさんには90代でもちゃんと歩けて話せるひとが沢山いる中で、けっこう若めの母が円安の曲線を描いて寝ていたり起きていたりしている。

 

  そんなこと淡々を実はやっている。そんな日々になった。気が狂わないように神に祈っております。