昨日午後から介護休暇をまたもらって(使いまくっている)プレザンメゾンに行った。

姫路カトリック教会の神父さんが来てくれることになっていた。初対面なのだが、教会のHPだと主任司祭は珍しく黒人のかただった。コンゴ人ということだった。僕がお世話になった神父さんは、アイルランド人、アメリカ人、メキシコ人、日本人。筑波にいたとき信者さんは筑波大の留学生の黒人ということがあっても黒人の神父さんは初めてだった。

 

 日本に来ている神父さんはみな日本語がペラペラにしゃべれるのである。毎週説教をするし。新宮にいたときアイルランド人の神父さんは説教の日本語をローマ字で書いていた。(僕に茶道を教えてくれた先生(キリスト教徒でもあり)が亡くなったときのそのお葬式の説教を僕と神父で考えてそれをローマ字で神父が書いた。)

 

 プレザンメゾンの一階の食堂で、昼食が終わって昼下がりの2時に神父さんが2人の信者さんとともに来ることになっていた。スタッフさんや施設長さんにとっては、神父さんも珍しいし黒人さんも珍しい。数か月前に新宮からアイルランド人のハイパーに元気な神父さんが4人連れてきたのでもあったが。あの時は母にとってなじみの人たちの面会であり、神父がこうして老人ホームや病院を訪問するときに必ずするように御聖体(という最期の晩餐にイエスが弟子たちとともにしたパン食)をもってきてくれて、いわゆる御聖体拝領をしたのでした。

 

 今回も、そのコンゴ人の神父さんは、祈り、母の頭に手をおき祝福し、聖体拝領をしてくれた。あのときとちがって、母はもうあまり話せないのであるが、終始笑顔であったので、神父さんがつれてきた二人のかたも、お元気そうですねと言ってくれる。人が来たときはお元気そうになるのですよ、と僕は言わなかったが、母はそういう人だったし、今もそうなのだ。その笑顔がよいと多くの皆さんが言ってくれる。そういうことを言ってもらえる母が私の母であることを、何よりも有難く思う。つまり愛されているということだと思うから。でも笑顔というものは、皆を幸せにするから、だからみな愛を先にもらっているという風に感じるのだろう。厳しくてよく怒られた自分の子供時代の母を思うと、こんなに笑顔が素敵と言われる婆さんになってしまえたのは、本当に信仰のたまものとかいうものではなかっただろうか、と僕は時々思う。妹いわく、いやいや母さまは少しも信心深い人ではありませぬという。それはそうだ、そんな熱心な信者さんではなかったが、今日神父についてきてくれた二人のおばさんのように母も元気でまだすこしは若かったときに、やはりジョー神父にくっついて病者訪問をしていたのだった。

 

  母が病者訪問をできるくらい元気だったのはいつだっただろうか。母からその話を聞いたことが何度もあった。元従軍看護師だった勝浦のNさんが一人暮らしで高齢になられしかも視覚障害があり新宮で施設に入っていた。その人は僕が18の時、父が病床にあったとき臨終のときまで母を助けて看病してくれた人だった。その人を神父さんとともによく訪問した。その人がいつしか認知症が進み、神父もうちの母もわからなくなり、最後は怒ってきたりしたのだったという。亡くなれた時、身寄りのなかったその人を施設の人たちが教会で行われたお葬式で送った。まるで家族のようだったと妹が言った。教会のキリスト教の絆よりも、最後に看取り、体を介護し、食べさせ風呂にいれ世話をしつづけてくれた施設の人たちとのきずながそんなに強いものになったと知ったときに、それこそ愛だと思い、人間とはいったいなんだろう、宗教とは何だろうと思う。

 

  姫路の神父さんが帰るときに、神父さんはもう日本は長いのですかと聞いたら、途中でカナダに赴任していた時があるが、トータル20年くらいと言った。にこやかでまじめで、この人も僕がしっている神父さんと同じ、信仰に自分をささげた人だなと強く感じた。神父さんは結婚も自分の財産を持つこともなく、また自分の名誉のために生きる人たちでなく、ただ神父として神父をするために神父を生きている。そして”キリストの愛”を話す。いつでも連絡くださいと神父は言って、去って行った。