一番バブルだったその年に、たしか祖母が逝った。

その年、僕は大学を卒業して就職した。売り手市場のバブルのころの就職だった。僕が入社した製薬会社が今年は、ものすごい赤字で大変なことになっているらしいというニュースを見る。僕は3年目に退職して、他の仕事に転職したのだった。

 

 祖母が逝く前、伯父のところで介護されていた。話せなくなった祖母が寝ていた。祖母はとても優しい人で、母もそういっていた。母が自分の母のことを優しいというのは、いつもの母のキャラからあんまり想像できなくて、僕にとって優しかった祖母は、母のような少し他人に対して手厳しい人でも、自分の母は優しかったと言わしめたほどに、本当に優しい祖母だった。

 

  母の顔がその祖母に、だいぶ前からそっくりに似てきた。母を見ていると、優しかった祖母を思い出し、いつしか、けっこうおっかなかった激しい母の性格も、角が取れて祖母に似たいつも終始笑顔のおばあさんになってしまった。

 

  そんなわけで、母は今の介護施設に入ってから、よく介護士さんに可愛いと言われていたのだけれど、このたびの脳梗塞で、その笑顔だけは少しもどってきたようだけれど、なにせ言葉がうまく言えなくなり、あのころの伯父の家に寝ていた全く話せない祖母のように、母はそっくりな顔をしたあの祖母になっていってしまうように見えて、遺伝だから体質だからと、同じ道をたどって進んでいってしまうのを、僕は抗うこともできないで、見ているだけというダメな傍観者をしている。

  もう2年前になってしまったが、新宮にいたころの母を勝浦町立病院のスパルタなリハビリ入院に行ってもらったことがあり、母はとても一生懸命にリハビリをしたことはしたし、それでけっこう体力もついたのだが、コロナのころの面会できない長い入院に精神的にきてしまい、途中まででやめたことがあった。いつからか、母はがんばりがきかない。だからもう頑張らなくていいから、安らかにして過ごしておらいたいというような願いばかり僕は持つようになった。

 

  明日、施設に午後姫路カトリック教会のコンゴ人の神父さんが信者さんかシスターか3人くらいつれて来てくれるのだそうだ。母に会いに。新宮のジョー神父が頼んだと言っていた。そういう連絡が姫路の教会からあった。僕は教会に長いこといっていないダメなキリスト教徒なのだが、立ち会うことにした。ということでまた明日午後から仕事やすんでいくことにした。

 

 あとどのくらい時間が残されているのだろう。人間とはなんだろう。こうしていつも、なにか悲しいようなことを抱えて生きている。人間は本質的にどこか悲しい。だからいいのだ人生は、とか言えるくらい達観することはまだ僕には無理なのである。自分が死ぬときにはそう言ってられればいいのだが。そういうことも突然きてしまえば、達観とか言っている間もなく、それは僕を置き去りにするように先に進んでいくのかもしれん。なにかこう、キリスト哀れみたまえ、というほかないと全く思う。