思っていたより早く退院したので、拍子抜けした。

 

長久病院の先生の説明では、経過もよく後遺症も無いので、一か月の入院リハビリというのはやめて、本日退院しましょう、となった。入院して長くくらすなら精神的負担もあるとおもいますと、先生は言った。今、面会はコロナもろもろで無理なので、この点だけ心配していたのだけれど、ひとまずよかった。

 

 

 昨夜、妹が家族のLINEに、書きこんたのが、

 

  -----今夜9時から10分間、本気の祈りの集いをしましょう
三人以上の祈りは、聞き入れられるというから、きょうだいみんなで祈れば、かなり強力とおもう。同じ時間で、やる方がたぶん強力、しらんけど。祈りのコツは、お母ちゃんのそばにイエスさまが座っておかあちゃんのために祈ってくださっていることを想像して、お母ちゃんの頭の血がすーすーと流れていって、詰まってるところが生き生きとみずみずしくなって、おかあちゃんは顔色がよく、穏やかに眠っていることを想像します。穏やかだなぁというのを感じます。
そういう祈りかたで、おねがいします。一応、統一しといた方が強力なんだと勝手に思っている
この祈りかたはイエズス会の司祭に教えてもらった ------

 

 だった。僕はもうずっと前から何かを願う祈りなどというものをしたことがなく、僕の祈りは祈願ではなく

ただ静まるためにするもの(Meditation)でしかない。けれどもカトリック教会のミサでは毎回共同祈願といって、

主よ私たちの願いを生き入れたまえ と唱えて、いろいろなことを願う 世界の平和、困っている人のために、身近な人のために。

 

  妹のLINEに呼応して、姉も弟も了解をし、本当に9時になったらお祈りをしたのだろう。

僕も、いつもの坐蒲に座り、いつもの坐禅の形で、イエス様のエネルギーというかなんというか、結局いつもと同じになるしかないのだけれど、内面深く、思考の奥にいる私という命に、まかせて坐った。兄弟は、妹の書いた文を頼りに、それぞれの祈りをしたのでしょう。僕の中にあった奥にいる私というエネルギーは、母の命の行く末に対して、深いところで危険であることを伝えてこなかったように思う。祈りではなくて、僕のは、なにか予言でも読もうとしている行いなのかもしれない。

 

  一夜明け、今朝、医師の説明あるからと病院にいき、状況をきくに、上記のごとく、経過よく、退院ですとなった。3泊四日の入院だった。

 

  出て来た母はしかし、元気になって出てきた、というような感じではなく、なかなかに弱っていて、検査は問題なしと示しているけれど、さてさて心配な母になって出て来たのでした。新宮の神父さんに退院したことを電話した。いよいよ葬式のお願いまでした神父さんに。本当は、晩に妹が兄弟で祈ろうと言い、その通りにした話をしたかったが、しなかったのだけれど、きっと妹がするだろうと思う。

 

  施設にもどると、介護士のみなさんや、利用者のみなさんが本当に喜んでくれたのでした。そんなのを見ていて、結局こういう愛によって囲まれて生きているのだとやはり思うのです。元気はなかなかなに失われ、言葉の出てこない母だったが、チーフの男の若い介護士が、よびかけると、とたんに深いところから笑顔になり、妻と僕は驚いた。介護士は

 

 ---  僕の顔みると笑うんです

 

 といった。妻が、TWさん(という介護士なのですけれども)が呼びかけると元気になりますね。と言った。ほんとにそう思った。そして妻がこうして僕の母つまり姑を大切にしてくれていると言うことに対する感謝しかない、ということも思う。

 

 帰って来た母は、どうなっていくのか。まだわからない。様子だけ見ていると、僕には、こうして検査異常なしにしてもらってもどってきた母ではあれど、入院で面会不可のままとなるのと憐れんだ神が 昨日の祈りに応えてくれた今は 貴重な時間をもう一度もらったのだということ、つまりこれが祈りの答えだということ。あなたは母と母を愛してくれている人々に感謝して大切に生きなさい。そういう答えだということ。

 

  本当に 風立ちぬいざ行きめやも

 

 という堀辰雄のあの本の中にあったシーンのように大切な時間が今なのだということ。