オッペンハイマーの感想をもう一つ。

 

トリニティ実験のシーンである。秒読みから、点火、遠く離れた位置でたくさんのプロジェクト参加者の面々がサングラスをかけないと見えない異常におおきな光を見る。それからけっこうな時間がたって音と爆風が押し寄せてくる。

 

いろいろな映画で繰り返し映像化された核爆発の光の、オリジナル、歴史上人間が初めてみた光がそこにある。

 

 

トリニティとはインドの3神のこととも、キリスト教の三位一体のこととも言われている。オッペンハイマーがその名を付けたといわれている。この実験の時点で、彼等プロジェクト参加者の面々は、これが本当に人間を殺すのに使われるということをまだ経験していない。けれども、おそらく彼らは物理学が解き放つ、物質の中に蓄えられたエネルギー(E=mc2)ーは化学結合の組み換えで起きている普通の燃焼とは桁がいくつも違っていることを実際に見てみたいという探求心が勝っていたのではないだろうか。この実験にトリニティという名前を付けたオッペンハイマーは、これが殺人兵器と知りながらも、なにかロマンのようなものを感じていたということをうかがわせる。

 

 

 そしておそろしきことかな、映画を見ている僕自身が、このまぶしい映像、立ち上がっていく夜に光るきのこ雲の高さに、なにか形而上的な”神”的なものを感じてしまうのであった。それは美しいということなのか、おそろしいということなのか、とにかくなにか”神”である。(その荒ぶる神を、実際に日本というこの国に、2つも落として行ったのであった。ここで、僕がこれを美しいとか神とかいいうふうに表現することは、倫理上問題があるのは承知しているのだけれど、この映像を見ていると、彼らが”神の領域”とかいうものに肉薄してしまったなにかぞっとするような感動を分かち合わされてしまう。そして、それがどんなに悲惨な結果を我が国にもたらしたかを知っている僕らは、優秀な頭脳の面々がワクワクするような仕事が、こういうことにつながってしまうという異常な光景は結局一つの狂気だったとしか言えない。)

 

オッペンハイマーは、原爆を作り出すが、使うかどうかを決めるのか自分ではないという立場をとった。けれども、作り出してしまえば”使える”という立場を人間は手に入れる。

 

物語は、ドイツが降伏、ヒトラーは自害し、日本も度重なる空襲で降伏寸前という状況を踏まえ、研究者たちが、もうこの爆弾を人間を殺害するために使わないでもいいという状況になったことを喜ぶシーンがある。けれども、オッペンハイマーは、これを完成させなくてはならないと断言する。複雑な心情であるが、そこには莫大な予算をつぎ込んだ国家プロジェクトを背負った人間の苦悩も見て取れる。結果を出さなくてはならない。そして、もう一つ結果を見てみたい、という内面からの欲求。完成させはするが、そのあとどう使うかは使う立場の判断にまかせる。そこまでが自分の仕事。仕事に忠実である、やるといった約束を守るということが、仕事する人間の形として美学としてまた、自己の主張した”やれます”と言う言葉のプライドをかけて、彼は成し遂げなばならなかった。と自分で決めていたのだと思う。

 

  この映画に、長崎や広島の惨状の直接的な取り扱いが無いということは、日本の側ではよく言われたことだった。映画全体の構成からして、それを加えることは難しいように感じた。しかし、日本人である僕らは、アメリカとそこに亡命した物理学者が、もう80年もたとうとしている昔に、彼等の最先端の量子力学の成果として、あれを生み出してしまったことは、おそろしく狂気じみた集団行動だったといわざるを得ない。科学はつまり、なんにでも使えるのだ。現在でも、ミリタリー規格の部品はけた違いに高価で取引され、大きな金が動く業界になっている。それにぶらさがって無数の家族が養われているのである。それは一人の力で変えてゆけるものでもない。

 

  トリニティという言葉にオッペンハイマーは神を込めた。しかし僕らは、宇宙にエネルギーを与えた神は、生命に癒しを与える神であって、癒す神のほうが本当に神の望むことなのだというような夢をいだきたいと思う。時代が過ぎ去った。80年がたった。神にもう一度出てきてもらおう。今度は”火”ではなく、平和と歌をもたらす神に、それぞれの内面深くから登場してもらおう。あたらしき時代の到来の前に、この映画が作られたこと。唯一の被爆国の日本人としてこれを見たこと。僕らは新しい別の

トリニティに向かっていきたい。