初日の”オッペンハイマー”を観てきた。

 

 あの当時物理学者達が原爆の開発というものにどうかかわったかについては、ハイゼンベルグの”部分と全体”という本が僕の知るほとんどすべてだった。”部分と全体”では、プランクらとともにドイツに残ることを選んだハイゼンベルグの視点から、ナチスについて、そしてアメリカについて、科学者の倫理について語られている。

 

 ハイゼンベルグは亡命するニールスボーアを訪ね、戦争と自分たちのおかれている状況についての相談をしたと、この”部分と全体”には書いてあった。しかし今日観てきた映画”オッペンハイマー”では、アメリカに招聘されたニールスボーアが、はっきりと怒りを込めて”ハイゼンベルグは私にナチスへの協力を依頼しに来た”と話すシーンが出てくる。ロスアラモスを率いる主人公オッペンハイマーが原爆開発のチームにボーアを招いたのだった。敗戦国となったドイツで、終戦後ハイゼンベルグらは逮捕され原爆製造への関与などが調べられることになる。

 

 ボーアが招かれた、その招きの宴会の席に、セリフのある出番はないがボンゴをたたいている青年がいた。間違いなくファインマンである。ファインマンは、その著書”御冗談でしょうファインマンさん”の中で、アメリカの優秀な高校生たちを率いて”これは戦争なんだ”とけしかけて驚異的な計算を猛スピードで達成した様を語っている。この映画は、日本にとっての戦争の傷を描いたとされるゴジラ-1と比較され、アメリカにとっての勝利の戦争の歴史でありながらも、科学者の罪というものを考えさせる。

 

 物語の中で特異な位置を占めるのはアルバートアインシュタインだ。予告で少し顔を出すアインシュタインは、作品の中では、実はもっと何度も登場し、オッペンハイマーと会話する。アインシュタインが登場するたびに、思慮深い語りとまなざしで、観ている人は癒される。最期のシーンで、オッペンハイマーはアインシュタインに印象的な言葉を投げかける。ロスアラモスに直接かかわらなかったとはいえ、アインシュタインがルーズベルトにドイツよりも早く原爆を開発すべきであると進言したことは有名であり、アインシュタインの心の深くに、戦争に対する責任という意識が深く刻まれていたことだろう。

 

 先述の”部分と全体”の中でも、アインシュタインはヨーロッパの量子力学の研究者グループ群の中では別格の天才として語られている。アインシュタインの当時における影響力は果てしないものがあったに違いない。その偉人がアメリカに亡命し、大統領に進言したことが、本当にロスアラモスにまでつながったかについては議論のあるところだが、アインシュタインという人のキャラクターからして、そのことは深く心の傷にのこったと思う。

 

  アインシュタインは、戦前に来日し、熱烈な歓迎をうけている。戦後湯川秀樹と会った時に、自分を歓迎してくれ、また自分も深く愛するようになったその国の人々に原爆を落としたことを”涙をぽろぽろ流して”あやまったと湯川秀樹夫人が著書に記している。(自分が落としたわけではない。それでも彼の中で人間がもしも一つにつながっているという意識が深いところにあったとすれば、落としたのは自分であり、落とされたのも自分だと感じたのかもしれない)。

 

 さて映画”オッペンハイマー”だが、初日終わったところでネタバレするわけにもいかないので、この記事では、周辺の話ばかり書いてしまったが、実際、僕ら物理をかじってきた人間にとっては、登場する実在した物理学者たちのラインナップがとても興味深かった。オッペンハイマーはボルン(オリビアニュートンジョンの祖父でありノーベル賞受賞者)のとこで学んだのであったとかいうことがわかったり。

 

  終戦、そこから始まるソ連との軍拡競争、歴史の抗いがたい流れに翻弄されていくオッペンハイマーの輝かしいような悲しいような、本人と話してみないと、わからない複雑な心情の作品として仕上がっていた。