ザウワークラウトを作ると、なにげに美味いので、うちの家族はすぐたいらげてしまい、また仕込むためにキャベツを買ってきてもらった。

 

 何度かやってみてわかったのは、漬け込んで4日目くらいは、発酵は進んでいるのだけれど、味が違う。ちょっと苦いと妻は言いぺっぺと吐き出した。

 

 それは乳酸菌以外のいろんなものを作っている状態(ヘテロ)だからで、しばらくして乳酸が増せば、pHが下がり酸性環境で乳酸菌だけが勝ってしまって、酸っぱさがメインのザウワークラウトになるのであると、思う、と僕は”発酵の技法”を読んでつけた知識を心の支えにして言った。疑りぶかそうに妻は、いやこれは失敗なのだというような感じで見ている。

 

 予言通り、何日かすれば、売っているのと同じ味のザウワークラウトになった。何回やっても、できてしまえるなとまた思った。

 

 乳酸菌は糖C6H12O6から乳酸CH3CH(OH)COOHを作って、その過程で生まれるエネルギーを利用して増殖する。乳酸菌とは、乳酸発酵をする菌の総称なので、いろいろな種類があるらしい。とはいえ、皆同じ解糖系という化学反応の道で、糖から乳酸を作る。

 

 鞭毛で動ける例外もあるが、基本運動能力がないので、乳酸菌どものやっていることは代謝と増殖だけだ。代謝(エネルギーの流れ)と増殖(情報の流れ)しか無いという生命の基本に還元された生命。生命の原理を体現している存在。キャベツに塩まぶしてつけておくだけで、なぜか増殖してくる存在。

 

 学生のころ、研究室の先生の家をみんなでたずねた。酒のつまみに奥様が出してくれたザウワークラウトの味の不思議さにおどろかされた。先生はドイツ帰りの人だったから、そのころ珍しかったザウワークラウトというものを自宅で奥様が作っていた。ザウワーは、あのときの若者であった僕らに先生の化学を更にとても魅力的にみせてくれた。80年代の田舎者の学生に、留学帰国して自室にドイツの恩師の写真をかざり、生き生きとペプチドの話をする40代の若い先生は輝いて見え、そのころの記憶全部に先生からいただいた愛情のようなものを、今はなつかしく思い出されて来る。そうだった、愛されていた。

 

 20歳そこそこの自分を赤面しつつ、あのすっぱみを作り出してくれたものが生化学だったのだとおもえば、発酵の中に僕らの青春は漬けこまれてあった。僕らは漬物であった。

 

  ところで、乳酸菌のやっていることは代謝と増殖だけだった。僕らは人生に意味をみつけたがるが、生命の原初形態に近いだろうと思われるこういう細菌は、結局代謝と増殖しかしない。代謝のうちでも、メインは呼吸(酸素を使わない呼吸)、つまりエネルギーを作る行為であり、そのエネルギーはまた体の必要なものを作るためであり(膜を構成する油とか、遺伝子を構成する核酸とか)、その体をもって分裂して増えるために、核酸をコピーするにもやはりATPに蓄えたエネルギーを使う。そもそもなぜATPに蓄えるのか?それはタンパクの形を変えたり、代謝でまた別の分子を作ったり分解したり、つまり分子を操作するためだ。分子でできた細胞が自分の構成分子をいろいろやりくりするためのエネルギー源としてのATPを作るために、やはり外側にある分子を接種して、その分子が持っているギブスの自由エネルギーをATPにする。しかしなんだ一体こりゃ。何のためにこんなことをやっているのだろう。

 

  そんなことを考えていると、どこかのスキルのある馬鹿が、面白いコンピューターウィルスを作ってはネット社会に放つという悪意との違いがよくわからない。生化学がやってきたことは、結局物的な過程で物的な動きを解明してきたのだった。それでもその成果で薬などが作られた。昔は不治だったエイズで人はそう簡単には死ななくなった。おかげで命拾いして、人生の価値ある時間を取り戻して生きることが可能とされた。生命は物的だという科学のおかげで、物的とは信じられない人間様の愛憎あふれる人生にそれらは貢献されてしまった。

 

  しかし、基本を見たらやはり乳酸菌は、エネルギーを獲得し、体という自分のパタンを保存するために遺伝子を複製し増える。何のためかわからない。何のためかわからないことを一生けんめいやらねばならない悲しいようなつきうごかされを”衝動”という。まさに生の衝動である。森田正馬が言った言葉である。その衝動には善悪の分別はもともとないけれど、人間にまで高度化すると、そのまんま出したらいろいろ困るので、いくらか整えて仕事させてやらないと、ノイローゼにはなる。けれども、そのノイローゼでさえ、生の欲望の本来の発露の一つとして発現されたもの。だから人も、乳酸菌とほんとうは変わらない。エントロピー増大という死にいたる海の中で、離散して分解されてしまわないように、代謝でエネルギーを得ながら、自分という情報を必死で保とうとする。

 

  けれども、問題はその”衝動”だ。それはいったいどこからくるのか。細胞があって、遺伝情報があって、代謝系があるという社(やしろ)を構えると、宇宙のどこからか魂がやどって、衝動を生むのか。それとも、すべては物的であって、衝動という妄想があるだけなのか。教えてくれと、僕は言いたい。