発酵と瞑想は似ていると思った。

 

 今年の抱負は発酵について学ぶことですと、元旦に家族に宣言したのだけれど、

農学部出の私が、いつしか放射光施設の技術者をやるようになって久しく、遠い昔の学生のころ、代謝化学やら微生物やらを学んだことが遠すぎて忘却の彼方に消えて行こうとしている、しかも年男で還暦(!)という僕が、一体なにを直感したのか、昨年の終わりごろから、ふとまた発酵に意識の焦点が合っている。またといったのは、僕の発酵ブームは10年ほど前にもあったからだった。そのときはビールキットを入手して醸してみたら、ほんとうに美味かった。

 

 ザウワークラウトを作ってみようと思ったのは、その昔自分が筑波の農林学類の生徒で、卒研についた先生(一年次からクラスで世話になった異常に元気印の)がドイツ帰りの人で、先生の家を研究室の皆で訪ねると奥さんがザウワークラウトを出してくれたのであった。変わった味のキャベツだが美味で、ビールに合う。舶来の漬物なんだなと思っていたあれを、何十年もたって自分でやってみたら、簡単なことであって、市販のキャベツにでさえ自然に乳酸菌がくっついてくるので、丈夫な袋にいれて塩を入れてモミモミして、入れものにうつして適当に蓋をして汁にキャベツさんが埋もれるようにしておけば、4日くらいしたら、出来上がっているのであった。発酵だから泡もでる。

 

C6H12O6→3C3H6O3+2ATP

 

 この式を見ると泡の出る余地はないなとふと思う。二酸化炭素かなと思っていたのだが、エタノール発酵と違ってこの式にはCO2の文字はない。あの泡はほかの反応も起きているということなのかな。とか、やってみて疑問が湧けばいろいろと学びのネタがある。やってみて学ぶなんて、みんな誰でもやってきたことなのだろうけれど、私も長い年月

、生命などからずっと離れた半導体のセンサーの電子回路を触りながら、やってみてデータとって考えて学んできたから、職業上のセンスみたいなもんで、やってみて学んでなにかと親しくなっていくという様はなじみがあるようにも思えてきた。

 

  この発酵や生命や代謝にはしっかり電子というものがからんでいるのだ。生命の化学反応はギブスの自由エネルギーというとても難しいのだけれど意外と実用的にそれぞれの物質で表になってアトキンスの教科書の巻末などにまとまっている値でいろいろと計算できてしまうという、しっかりとまるで電子回路のように、その漬物の中に出来事が発生している。目に見えないけれど、あそこには電子のやりとりがある。電子のやりとりは、固体シリコン結晶の中で電子やホールがいったりきたりしてなんかを実現している様とそんなにかわりはない。要は生命は電気であって、我々の肉体は電気の法則に従って生きている。

 

  そういう物質の法則の中に生命の現実はあって、発酵という出来事も、ふつふつと泡などを拭きながら何か平和においしいもものが出来上がってゆくという可笑しさを、僕らは自分にとってありがたい結果になる腐敗だけを”発酵”と呼んだという極めて人工的な、あるいは人間の側と自然との接点がそれと言っているようなところが、このことにはある。おもしろい。

 

 

 
 小倉ヒラクさんは、発酵とは唯心論的だという。発酵なんてものは無いのである。あるのは微生物の”生きる”という活動だけ。それに人間が嬉しいなら”発酵”と認識するのであった。人がいなければ発酵は無い。
 
  それで発酵は、長年の人間様による研究と実践から、状況をととのえてやれば自然に起きてくるということがわかってきたので、人はいろいろなものを”発酵”させることができる。させることができるというポイントが、自力か他力かでいうと自力なとこがあるのだけれど、状況をととのえたあとは他力、ただ待つ、そしてそれは起こる。
 
  というポイントが、僕が発酵と瞑想は似ているな、と冒頭で書きだしたことにつながっている。長々と書いて、その結論だった。しかし結論はシンプルでなくてはつまらない。というかくだらない。あるいは役に立たない。それはやはり自然の働きに少し手をかすだけで、主役は自然でなければならない。それは生命の働きなのであって、最終にはまかせておくしかない。けれども、人間は環境を整えるということぐらいは任されているようなとこもある。掃除して、準備して、あとは天まかせ。僕は最大限の準備をして臨むということだけをシンプルにやっているのですと言ったイチローさんを思い出すのであった。
 
  発酵と腐敗は等しく微生物による分解作用であって自然の流れなので、そこに差別はない。けれども、人はその自然の作用の中でこれは良きものと価値を感じたものを取り出して、その手によって再現性を実現してみせる。そこは再現性の重要性を唱える科学の始まりともいえる。瞑想や宗教も、人の手によって何か整えたいということから始まったようなところもある。ほうったらかしにしておいて放縦であれば、それは荒れた心、荒れた地面、荒れた部屋、荒れた生活があって、どんどん腐敗もしてゆく。
 
 かといって人間は、これは良いもの、こっちは悪、いやなもの、と自然を真っ二つに分解したところに、天地創造におけるアダムとイブのリンゴの話がからんでくるということを、僕は聖書からそしてACIMからずいぶんと学んだはずなのであった。ここののところは本当にわかりにくいなと思う。ほおっておいて悪化してゆく流れというものは、ある。人は草ぼうぼうの庭にしていくことはできないから草取りもする。髪の毛は生えて生えて長くなりすぎたら悲惨なので散髪をする。サムソンのように伸ばし続けるわけにもいかぬ。心も早朝から坐禅の一つもして整えて、一日を意義あるものにしたいと作為的なことを考える。しかしより深まると、一体誰のなんのために意義ある一日なんだいと、だんだんエゴの悪あがきも見えてくる。
 
 エントロピーの増大の向かう先、宇宙の熱的死という姿とは違う、生命の法則というものは、熱力学的になやはりエントロピーの増大から逃れられないと言われているが、なぜか人は掃除をしてエントロピーの増大から逃れようとする。そのエントロピーの増大の流れとは違う、ととのったものへのあこがれは、内面深くの瞑想の奥から湧いてくるものであるとき、無理なく整っていくような気がしている。そういう点もどこか発酵と通じているような気もしている。