久しぶりに田口ランディさんを読んだ。

 

 この本は数年前に出版されていたのだけれど、しばらくランディを本を読んでなかったうちに見逃してしまっていた。オウムの事件の実行犯の一人で処刑されたYという人に、田口ランディが面会を続けたその手記のような小説である。

 

 この本に出てくるYという人は獄中の林泰男と言われている。あらためて林泰男のwikipedia

 

を見ても、またこの田口ランディさんの本を読んでも、林泰男の飾りの無い人徳のようなものに感心させられてしまい、しかしながら彼(は実行犯の中でも最も大量のサリンをまいたのであって)によって殺されたり傷つけられた被害者とその家族縁者は数知れぬ。

 

  会ってみると、なんて純粋な青年なのだみなが思う。けれども、彼はそれを行い、そしてその実行の日に何を思ったかについても、この本につぶさに書かれている。さてこれは一体なんなのだろうと考える。この本を読み終えてみると、結局わからない、ということだけがわかった。

 

  人間は人間のことがわからない。ある時教団内で修行中の在家の人が死亡し、その死亡を隠蔽することになったのだが、この出来事が決定的ターニングポイントになったと、昔なにかのテレビ番組でみたことがある。麻原はこの出来事により、我々はある段階に来たと考えたとされていた。つまり、人を殺して(ポア)自分が罪を犯してでも、人類を救う尊い使命が果たせるならばそれは正義なのだというような教えである。もちろん、こういうロジックは戦争を行う人類が常に用いて来たアホなロジックなのだけれど、そのときの麻原ととりまきの考えの中では、それはそうでなくてはならなかったと考えれらたのだろう。

 

  そういう考えに陥る理由は、ただ一つ、自分たちが凡夫だといやなのだった。我々には崇高な使命が与えられててほしい。そこら辺をあるいている凡人とかとは違うはずであってほしい。こんなにまじめに修行したのであるから。しかしながら、みな本当はわかっている。だから奇妙な感覚につつまれるのだ。これはいったい何をもとめているのだろう。何をもとめての修行なのだろう。いったい何をやっているのだろう。(受験で苦労するのもみんな特別な使命を帯びた自分を欲してであり、スポーツで努力するのもそうであり、人間はみんな努力して何かを得ることで生きている実感を得るのであり、そのどこが悪いというような面矛盾がこれはどっかにある。どこにあるのかわからん。生物の競争の矛盾にも見える。世界はなぜ弱肉強食なんですか、え、神様。。。)。

 

  Yという人をこの本から読み取ると、どこか、その凡夫ではないために何かを求めるということの矛盾に、うすうす気が付いていながらも、教団を出てその場以外の生き方に向かうきっかけをつかめなかったというようにも見えたのである。そうして、殺人マシーンとも言われたこの人が、しかしながら、いつも僕が永劫回帰のようにその思いにかられるポイントにもどってしまうことの一つとして、やはり”僕”と何も変わらない人間であったとおもえることである。

 

  僕はYだと思う。Yは罪を犯し、処刑が5年前に終わっている。事件は忘れ去られて歴史本のページに載っているだけの奇妙な出来事へと風化する。それでも僕はYであり、いつでもYのような道に人生が導かれえるということを覚悟しなくてはならないと、やはり思ってしまう。俺は絶対違う、という態度こそがまた一つの間違いの種なのではないか。そう思う。僕はYだ。