人にすすめられて、

 

 

を読んだ。

 

  絶版でアマゾンで高値で取引されている。運よく図書館にあったので読めた。

 

  著者エンリケバリオスは、体験談として書いているのか創作として書いているのか明らかにしていない。しかしこれを読んでいると、既視感がある。こういうことを心のどこかで知っていた。

 

  僕はこの地球という星だけに人間が孤立して”いる”ということが、奇妙に思える。

”宇宙人”などというと、また怪しげなことを言う、と思うだろうが、宇宙にある星の数を考えてみれば、どこかに思考能力を持ち、かつ我々の文明を凌駕した”人たち”というものがあってもおかしくない。

 

 しかし宇宙人を、まだ我々は見たことがない(とまともな人は思っている)。アメリカの政府の中枢は会っているという話があっても、普通には真に受けない。僕も真に受けてない。だから僕らはいまのところ、普通は宇宙には人間は僕らしかいないと思っている。地球人はものすごい人口になってしまったから人間だけで十分で、未知の外界の人のことを考えなくても知らない人はどっさりいる。

 

 しかし、それではなにか寂しいと思う。この宇宙に地球人しかいなくて、その地球人というものが、いまだに戦争などをして互いに疑念をもってしんどい生活をしている。あるいは職場でストレスフルに生きている。ひきこもって孤独な人もいる。鬱積した”地球”の姿が見える。SDGsといい、この地球の生命をつないでゆこうと言うのだけれど、一体なんのため?というニヒルな思いもすこしある。常に生命の継続のブレークスルーは閉鎖系ではなく、開放系に向かうことにあった。宇宙に隣人が、それもどっさりいてくれたほうが、とても安心な気がする。という思考が、この”アミ”を読んでいると湧いてきた。

 

  ところで、話が飛ぶのだが、こないだノーベル物理学賞をとった研究は”量子もつれ”ということについてだった。彼らは光子を使ってそれを示した。僕は、前回と前々回の記事で光のことを書いていたので、その間にこのノーベル賞の話題も書いてみたいと思っていた。

 

  どんなに遠くに離れていても一瞬のうちに伝わるものがある。という不思議を彼らは示した。二つの量子がもつれあっていれば、それが可能である。この物理学賞に先立つずっと以前に、ボームという人が、実は宇宙は分離したばらばらなものではない、ということを主張した。

 

  これと宇宙人がいるということと、なんの脈絡があるんですかと言われると、うまい説明を僕は書けないのだけれど、その量子もつれということがある、ということと、どこかに宇宙人がいる、ということの間に、なにかつながりがあるように感じてしまうところがある。ちょっとSF的ですが、何万光年も隔たった宇宙の果てに住む者たちと、私たちを、その空間的なへだたりを障壁とすることなくつなぐてがかりが、見つかるのではないかというような。いやすでにつながっているとでもいうか。