名古屋の学会発表を終え、その足で播磨に帰った。晩に和尚のパーティーがある。一週間前の仰天坐禅の日、和尚はもはや寝床で動けなくなっていた。果たして今日和尚はお元気でいてくれているのか?心配しながら、新幹線に乗った。

 

 この日を初日として 「五人展 :山雲海月」 というタイトルの展覧会が、和尚の寺、宝林寺で、三日間開催されていた。初日の今晩、相生のステーションホテルアネックスで盛大に祝賀パーティーをする、と和尚は言った。

 

 相生に到着し、ステーションホテルアネックスの前に来ると、奇妙に静かなので胸騒ぎがした。何か催されているように見えない。ひょっとして、和尚が急逝され、この催しは中止となったのではあるまいか。

 

 恐る恐るフロントできくと、実は場所が変わり、播磨科学公園都市の研修所でやっているという!なんと職場の近くだが、ここは20キロはなれた相生だ。詳しい場所もよくわからない。意を決して、和尚の携帯に電話した。あのご様子では、話もできないかもしれない。この電話には誰が出るだろう。

 

 ---- はい!

 

 驚くべきことに、太く、元気な声の和尚本人が出て、場所を教えてくれた。もうすぐ始まると言っている。僕は、播磨科学公園都市までタクシーに乗った。

 

 坐禅会のメンバーが受付をしていた。中から乾杯の発声と拍手が聞こえてくる。満員の席の空いたところを見つけると、そこは門前の皆さんの席だった。

 離れた向こう側の席に、車いすの和尚と奥様を、白隠研究で名高い仏教学者の芳澤勝弘先生、陶芸家の福森雅武先生などそうそうたる面々が周りを固めている。和尚は、一週間前の様子が嘘だったかのように復活して談笑している。 

    

 

 

  

 

 

 

  僕は門前のみなさんと、いろいろお話をしながら、相生名産の牡蠣鍋をつついた。

  向かいに座っていた人が言う。 

 

”宝林寺は以前の不祥事で、地元での評判が地に落ちていましたが、あの和尚が来て、一軒一軒挨拶にこられ、(修行僧のように)毎月托鉢もなされ、いろんな活動をどんどんやっていく。見てのとおりの繁栄です。それに、地元だけでなく広くいろんなとこから人が集まってくる。神戸新聞にも何回も載った。あの人は、地域の宝です。それにここは檀家の無い寺なのに、和尚は自活しておられる(注1)。どのようにやりくりされておられるか、私はね。和尚のこと見てると涙出てくるんです。”

 

 僕は、和尚の席に挨拶にいった。普通なら、一杯注ぎに行くところだが、和尚はもう何も食べることができず、酒をのむこともできない。そばに行き、挨拶すると、楽しげに

 

---おお。今日の法話は、うまくいったぞ!  まら明日も同じ話しますからからね!

 

 とにこやかに話した。僕は、今日は出張帰りなので、珍しくスーツですと話した。和尚の手元には、小さな皿に白身の魚が少しとってあり、皆が口にしている牡蠣料理は召し上がることができなかったが、それでも宴会を心から楽しんでいた。ご挨拶してもとの席にもどろうとすると、

 

-----また来てくださいよ。話しましょうよ!! 

 

と大きな声で言った。(これが僕と和尚の最後の会話となった。)

 

 しばらくすると、車いすの和尚がマイクをもって、

 

------ みなさん。ここで恒例の、アピールターイム! これからマイクを回しますから、一人一言お願いします。

 

 と言った。和尚は、この宴会の司会をもやっていたのである。何の奇跡で、あの一週間前の状態から回復されたのか、実に不思議である。

  

  マイクが来ると、たくさんの”和尚さん、いつまでもお元気でいてください”の言葉が口にされ、そのたびに哀しみが胸の奥を絞めつけた。芳澤勝弘先生は隣に座る和尚を斎(さい)さんと呼んで、その生き様をほめたたえたり、茶化したりしてたくさんの笑いをとった。五人展のパーティーであるけれど、これは和尚への感謝祭なのだ。

 やがて、僕の番が来た。何も考えていなかったが、そのまま立ち上がり、

 

  ----- SPring-8で研究員をしています湯河流河と申します。

7年前に、ドイツ人(ネルケ無法老師)の書いた禅の本を読み、

巻末に、日本国内で"ちゃんとやってる坐禅会"のリストを見つけました。

兵庫県のとこを見ると、宝林寺とありました。

住所は、揖保川町。あれ、近いじゃん!と思って、電話したら、優しい声の和尚が出てきました。

それで、この和尚は当たりか外れか?(会場:笑) てことになるのですが、

とりあえず、坐禅会に参加するようになりました。

ところで、僕は、今日は門前の皆さんの席に座らせていただいて、

さきほどからずっとお話をお聞きしていたのですが、

本当に、和尚は地域の皆さんから愛されています。(会場:笑いと、拍手)

  和尚は、僧堂に長く過ごされ、厳しい修行を積まれた方であるのに、

高みから見下ろすようなことは一切なさりませんでした。僕は、一度、和尚に

 

  "宗教とは何ですか"

 

と聞いたことがあります。すると和尚は。。。。

 

とここまで話したとき、胸の奥から強い感情がこみあげてきて、次の言葉が出てこない。

 

号泣してしまうと、話ができない。やがて頬を伝って涙が流れてくる。  

芳澤先生が”ゆっくり!!”と励ましてくれた。すると、やっとの思いで、次の言葉が出てくるが、

それは涙声で、なんとか聞き取れる日本語にするのが精いっぱいであった。

 

  ------- 和尚は、宗教とは、坐禅をして、心が穏やかになった人の集まりです。と言われたのです。。。

  

 これ以上は、何も話すことができず、もうしわけありませんと言い席に座った。

 

  飄々とした和尚の根底に、宗教やイデオロギーの違いで対立したり(殺しあったり)する世界へのバカらしさと憂いがあることが悲しいほどわかった。その願いは、みなが坐禅をして穏やかになることだった。そのために毎朝坐禅会をし、誰か来たらその人と坐り、だれも来なかったら、和尚が一人坐っておられた。和尚は坐禅という言葉を使ったけれど、祈りでもいいのかもしれぬ。ヨガでもいいのかもしれぬ。スポーツでも、学問でも、歌でも、茶道でもいいのかもしれぬ。とにかく、心穏やかになった人の集まりが、宗教だし、穏やかな心で生きている人々の世界という、宗派の垣根を超えた、もっと深い根っこのところに、和尚の願いがあった。

 

  パーティーは終わり、僕は数年間通っていなかった坐禅会の懐かしい人たちに挨拶し、帰りの送迎バスに乗り込んだ。

 和尚は、奥様と主治医のH医師らとともに、特別車に向かおうとしておられた。

 楽し気に、談笑しながら奥様が車椅子を押し、向かっていかれる後ろ姿は、まるでこれから、

 花々が美しくが咲きみだれている天国の花園に向かっていかれるように見えた。 (つづく

 

 

*注1 宝林寺は京都の臨済宗宇大徳寺派の別格特例の寺で、大徳寺派の開山である大燈国師の生誕地記念寺である。檀家は無く、和尚はやりくりについて、常に悩むところがあったと思われるが、そのようなご様子は一切表に出さなかった。