(昭和46年5月完成)伊東は、天城山系を背に、相模湾に向かってひらけた美しい自然の景観と豊かな山海の幸に恵まれた明るい温泉リゾート地です。伊豆最大の漁港・伊東港をはじめ数々の漁港から朝夕新鮮な魚が水揚げされ、また、山の幸はミカン、ワサビ、しいたけなど、四季折々、山海の旬の味覚にあふれています。伊東の郷土・名物料理のご紹介伊東では、昔から旬の食材を活かした様々な郷土・名物料理が食卓にのぼってきましたが、さらに工夫を加えての新しい魅力あるメニューづくりが始まっています。その取り組みの一端ですが、ご紹介します。まご茶漬け伊東で捕れた新鮮なアジのたたきを、ほかほかのご飯の上にのせ、醤油とおろし生姜を加え、熱々のお茶、またはお湯をかけて食します。古くは漁師が船の上で食べていた伊東の郷土料理。箱寿司木で作られた箱に、伊東ならではの『海・山の幸』を豪華に詰め込んだ箱寿司。木の香りが漂う1品です。特に魚の『おぼろ』は美味。伊東にお越しの際は、ぜひご賞味ください。ちんちん揚げ・おさかなコロッケ伊東の郷土料理で、地元で獲れたさばとイカをすり身にして、そこににんじん・玉ねぎ・しょうが・ごぼうなどの野菜と、みそ・各種調味料をいれて混ぜたものを油で揚げたものが「ちんちん揚げ」。この材料にさらに玉ねぎを加えてパン粉をつけて揚げたものが「おさかなコロッケ」となります。ちんちん揚げの語源は、ちんちん揚げの材料を揚げる油が、鍋の中でちんちんと音がすることからと言われています。東海館昭和初期の建築様式をそのまま残す木造3階建の温泉旅館『東海館』平成9年に廃館後、伊東市に寄贈されたこの旅館は、その貴重な木造建築を後世に伝えるため、平成13年7月26日、市を代表する観光施設として新しく生まれ変わりました。東海館は、昭和3年に庶民の温泉宿として開業し、沢山の方々に親しまれ大いに賑わいました。当時の職人たちが腕を振るった自慢の建物は、桧や杉などの高級な木材や変木とよばれる形の変わった木々をふんだんに用いた美しい和風建築です。廊下や階段、客間の入り口など、館内随所に職人たちの手工を凝らした建築美がいきています。今や貴重となった伝統的な日本の建築様式を心ゆくまでご覧下さい。総タイル張りの大浴場床から壁まで前面タイル張りの大浴場です。

 

 

 

テニス、パラグライダー、スキューバダイブなどのスポーツ施設や様々な趣味に合わせた体験施設も充実しています。伊豆シャボテン公園など観光・レジャースポットも多数あり、一日では遊びきれないほどです。「伊豆の瞳」と呼ばれ、周囲4kmのひょうたん型の景観の美しい湖です。自然が残された湖畔には遊歩道が整備され、春には桜や新緑、秋には紅葉と、四季折々散歩しながら季節の移ろいを楽しむことができます。東海館の前にある「扇のお手湯」伊豆高原駅前にある足湯「美足(おみあし)の湯」お湯かけ七福神JR伊東駅前の湯の花通りには、お湯かけ七福神がいます。お湯をかけてあげると願いをかなえてくれるとか・・・七福神の湯と市内共同浴場伊東の街には、昔ながらの低料金で入浴できる温泉共同浴場が点在しており、その入口には、七福神の石像が一体づつ祀ってあります。松原大黒天神の湯(中央に浴槽にあるのが伊東式です。)市民・観光のお客様、誰でも入浴できますし、タオルなども販売していますので、気軽に立ち寄ることができます。温度/約41度(源泉は68度) 、泉質/ナトリウム・カルシウム-塩化物、効能/神経痛・筋肉痛・関節痛・打ち身・慢性消化器病・冷え性・疲労回復・切り傷・火傷など熱海七湯で湯の町の情緒を味わう。街を歩くと、坂道のところどころから湧き出す湯気が発見できます。「熱海七湯」といわれる源泉です。源泉を巡り、長い歴史と温泉情緒に触れるのもおすすめです。熱海七湯の一つ、「河原湯」。この辺りは石のごろごろとした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ました。当時、湯治客には「大湯」の源泉が主に使われ、他の源泉も限られた家のみが使用できるお湯だったため、 村人が自由に入浴できるのはこの湯だけでした。 1666年(寛文6年)に小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。

 

 

 

 

すぐ隣にある展望台へ行ってみることに。橋と一緒に、駿河湾を一望できるこの場所。本当に眺めがいいんです!案内板を見ながら眺めれば、どこに何が見えるのかがよくわかります。青く美しい景色は、ずっと眺めていても飽きることがありません。真ん中あたりまで戻ってくると川が見える北ゲートへ戻り、吊り橋を渡って引き返しましょう!「flower drop」をポケットに入れて、すぐ隣にある展望台へ行ってみることに。橋と一緒に、駿河湾を一望できるこの場所。本当に眺めがいいんです!案内板を見ながら眺めれば、どこに何が見えるのかがよくわかります。青く美しい景色は、ずっと眺めていても飽きることがありません。真ん中あたりまで戻ってくると川が見える北ゲートへ戻り、吊り橋を渡って引き返しましょう!「flower drop」をポケットに入れて、すぐ隣にある展望台へ行ってみることに。橋と一緒に、駿河湾を一望できるこの場所。本当に眺めがいいんです!案内板を見ながら眺めれば、どこに何が見えるのかがよくわかります。青く美しい景色は、ずっと眺めていても飽きることがありません。真ん中あたりまで戻ってくると川が見える北ゲートへ戻り、吊り橋を渡って引き返しましょう!「flower drop」(1枚200円・税込)。間伐材を利用して作られた小さな板が並んでいます。小さなおうちにお金を入れ、1枚選んで自分の手で取り出します。書かれたメッセージが1枚1枚異なるので、まるでおみくじを引いているみたいな気持ちになります。貼られた小さなシールの内側には、花の種。その時期蒔くのがぴったりの花の種が1枚に1粒貼られているんです。橋の上から願いを込めて種を撒けば、希望の花が咲くかもしれません。購入した「flower drop」を蒔くのなら、真ん中よりも少し北側にあるこのあたりがオススメ。この川を目印にするといいでしょう。

汗をかいたあとは海泉浴へ。海を一望できる絶景の露天風呂でリゾート気分を満喫できる。人気のスポットのため、人が少ない時間を狙って利用するといいだろう。他にもバーベキューやプールを楽しんでいる人がいた。翌日は海中を除けるクルージング船に乗り、初島の海を観察した。ちょっと料金が高い気がするが、海の中をのぞけるのはとても楽しい。最後に漁協スーパーでお土産を購入して熱海へ帰港。熱海へ帰ってくるとやっぱり雰囲気が全然違う。わずか30分の船旅でも初島は十分楽しめるリゾート地だったと感じた。初島より戻ると、熱海、伊東、伊豆高原いずれか宿泊すれば便利となりました。

 

 

 

このあたりは戦前には李王家の別荘でもあった所で、現在は伊東公園になっています。碑は伊東市街を一望に見わたせるなだらかな頂上に、昭和31年10月21日に杢太郎碑建設委員会の手によって建立されました。北原白秋碑北原白秋は福岡県柳川市出身で、杢太郎と同じ明治18年生まれです。39年に新詩社へ入り、与謝野鉄幹や杢太郎らと一緒に五足の草鞋で天草旅行をして親交を深めます。パンの会・スバル創刊など青春時代の文学活動では、杢太郎と白秋は常に密接に結びついていました。そういう古い時代からの親友であった杢太郎を通じて白秋と伊東とのつながりができ、白秋はしばしば杢太郎の生家を訪れただけでなく伊東には長く滞在していたこともあります。尾崎士郎文学碑昭和8年3月より都新聞(現在の東京新聞)紙上に連載された「人生劇場・青春編」は当初さした評価を受けていませんでしたが、同10年川端康成の賛辞を得るにいたり爆発的な人気を浴びました。軍国主義華やかな重苦しい時代のなかで強く明るく生きぬく青年主人公・青成瓢吉には作者自身の面影を多分に宿しているといっても過言ではありません。この青年小説「人生劇場」の作者・尾崎士郎は昭和19年10月に東京・大森から伊東へ戦時疎開をしてきました。当時、伊東在住の友人のすすめにより子供の療養のために住むことになるのがきっかけでしたが、昭和28年3月に東京へ移転するまでの約10年間を伊東で過ごしています。この間、朗々たる浪漫精神の持主であった彼は戦争-終戦-その後の混乱期と激しく移り変わる世の中を、伊東温泉より眺めながら「天皇機関説」「早稲田大学」「ホーデン侍従」などの力作を書き続けました。与謝野鉄幹・晶子と一碧湖鉄幹・晶子が中心となった「明星」では、郷土伊東の生んだ詩人木下杢太郎や、伊東音頭の作詩家でもある北原白秋、吉井勇、高村光太郎など多彩な同人が活躍していました。明星が百号をもって廃刊した以後も夫妻の創作意欲は衰えませんでしたが、特に晶子は芸術一般のみならず、教育問題・婦人問題などあらゆる分野ではば広い活躍をしていました。与謝野夫妻と伊東との深い結びつきができたのは夫妻にとっては晩年の昭和に入ってからのことです。