みなさま、こんにちわ
さくらゆかりです。
東京の夏は、ウオーターフロント
ということで、今回と次回、東京の下町の水辺をお送りします
やってきたのは築地場外市場🐟🦀
すごい人数の外国人
なので、もちろん市場の商店街は素通りです
まず、訪れたのはここ
築地・波除神社
【神社の謂われ…】
今から350年以上昔の話。江戸時代、築地の埋立ての際に何度も激波が押し寄せ、工事は困難を極めました。ある夜、海面に光を放つ御神体が見つかり「稲荷大神」として祀ると工事が順調に進んだことから
「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷として、厄除け・災難除け・商売繁盛などの御利益で親しまれている神社です。
ご神体のひとつとして、祀られているのが獅子🦁
築地のひとびとは獅子にお参りし、願い事をするのが、習わしになっています
いつの日か、きつね🐺もいっしょに祀られるようになりました
さて、お参りを済ませてから、そのまましばらく隅田川に向かって歩きます。到着したのは
「勝鬨橋」
鉄製のゆるいアーチが、歴史を感じさせます。隅田川の河口からは2番にかかる橋になります
橋のたもとにあるのが、かちどき 橋の資料館
かちどき橋の歴史や構造を紹介する資料館です
勝鬨橋と謂えば、何といっても有名なのが可動橋だったこと
勝鬨橋がかかる前までは、ここに渡し船がありました🚤
清洲橋 永代橋 勝鬨橋の3つの橋が重要文化財に指定されてます
この大きな機械。橋を上げ下げする発電機
橋の模型が展示されてます。実は、ただの模型はでなくて……
動作開始ボタンを押すと、船が通過するときの仕組みの解説とともに、橋が上下します
展示モニターにも解説動画があって
橋脚の各部に、運転室や見張り室などが設置されていました
なんと言ってもすごいのは、動力となる機械室が橋脚の中にあること
なお見学ツアーとして、橋脚の中の機械室の見学ツアーもあります。こちらは人数制限制で、別途事前予約が必要です(木曜日午前午後1回ずつのみ詳細はHP参照)
資料館の2階は、当時使われていた配電盤があります
高圧配電盤と、低圧配電盤の2種類です
なんと、隅田川にはこれだけの数の橋があり
夜間ライトアップもされていますよ
これだけ彩り豊かに飾られている橋はここ隅田川だけ。
いちどは夜の隅田川クルーズをしてみたいですね
資料館を見終わった後で、橋を渡ります…
ここが橋脚の場所。運転室のあたり
ここが、いまは上下することのない、可動橋の境界
ちなみに、TOKYO2020の時に、勝鬨橋をもう一度、記念に動かせないかと企画が上がったそうですけど、どうしても現代では交換できない部品がひとつあって、断念になったそう
今度は隅田川沿いを歩いて、勝鬨橋を離れた場所から眺めました
今では、観光クルーズ船や、水上バス、屋形船などが隅田川を行き交っています
つぎに訪れたのは、(ホントは別の日なのですけど)佃島
地下鉄の月島駅からの散歩コースです
朱色の橋と、後ろに立つ高層マンション群
下町の新旧の時代を感じさせる景色です
この小さな神社は尾崎波除稲荷
海のそばには、こうした波よけの神様がどこにもあるのですね
奉納書きには、水産会社や築地市場株式会社の社名も…
「さし石」という石がありました
漁業が盛んだったころ、漁師たちが力くらべに使ったという石が奉納されています
(いまは、持ち上げてはいけません)
すぐ近くの、佃島の住吉神社に、お参りします
「住吉」といえば、大阪の… を思い出す方が大半だと思います。佃島は大阪ととても深い所縁があって、佃島の元祖は摂津の国の漁師たち。徳川家康の命によってここに移り住んだのが佃島のひとたちと言われています
住んでいた摂津の国の場所が「佃」同じ土地の名前をここに付けたのが始まりです
元いた大阪の住吉大社の名残を懐かしんで、ここに住吉神社を作ったのも、ご先祖さまへの愛着だったのでしょう
龍も波を鎮める神様として、海沿いの神社に多く祀られています
漁師町らしく、船の魂と書いて「船魂神社」⛩️
鰹塚
この珍しい塚は、昭和28年に、東京鰹節類卸商業協同組合が、古来より続く鰹節の伝統と文化に敬意を表して、また豊漁を祈願して、建立をした石碑です
神社を出るとまっすぐの参道は、そのまま隅田川の堤防へ上がり、上がった先には鳥居が立っていました
佃島の高層マンション群は、もとは石川島播磨重工業の造船所のあった場所で
その中にひっそりと 佃島と石川島播磨重工業の歴史を記録した資料館があります
🚢石川島資料館⚙️
名前からして、立派な大きい資料館かと思って立ち寄りましたが、
実は施設自体は小さい資料館でした。
なお、館内は撮影禁止のため、パンフレットや区の施設紹介のHPの記事などをもとに
簡単に資料館の紹介をします
江戸時代初期、いちばん最初は、
ここには佃島と石川島という、小さな島がふたつあるだけでした
その後、石川島の方は、人足寄場の建設地となり埋め立てが行われ拡大
島は領主だった石川氏の屋敷でしたが、江戸時代末期には人足寄場だけになりました
島の歴史が大きく変わるのが、幕末に水戸藩主徳川斉昭が建設した藩の造船所
西洋の文明に遅れを取るまいと、意欲的に立てられた施設でした
それ以来、軍艦を初め多くの船舶が造られるようになり
明治時代になるとここは、民間の石川島造船所の工場となります
石川島工業はその後、大正時代に入ると、船の製造だけでなく、自動車や航空機などの製造にも参入。造船施設も規模を拡大…
長くなるので、後半は端折りますが、太平洋戦争により事業は一時ストップしますが、戦後復興に合わせ、造船事業は急拡大
だけでなく、重工業全体の企業として、石川島工業は世界的大企業に発展しました
(現在は企業合併を経てIHIになっています)
月島自体も、佃島だけだった面積から今の豊海地区まで埋め立てが進み
それでもまだ島の需要が足りず、南側に工業地帯として、晴海や豊洲埠頭が作られるまでになります
しかし最後は、造船所の他の場所への移転
韓国や中国など後発国による造船事業の追い上げにより、
昭和54年、石川島の造船所は閉鎖されることになり、跡地を再開発して🏣🏤🏥🚌
現在の高層マンション街。大川端リバーシティーに生まれ変わりました
ということで、今回は、なんの計画性もない下町界隈のぶらり散歩。
次回は、その隅田川クルーズの日本橋発着の観光船に乗ってきましたので
そちらを紹介します
それでは皆さん、明日も皆さまにとって良い日でありますように~