今朝は雨。

晴れたならまた美山に行きたいなぁなんて思っていたところの雨だったものの、物事とは自分の行動と意識で様子を大きく変えていくもので、やはり今朝もそうだった😄

昨日届いた着付け小物を朝から試してみると、似た製品でも違いがあることが分かり、試すことの必要性を実感出来た。

雨だとお外でご飯…とはならなくても、こういった収穫があるとやる気が出る。自分に合う物を知れると宝になる。これらは外でご飯を食べているだけじゃ分かってはこない。


億劫がらずにやってみることや、二の足を踏んでいた二の足をやめて歩き出すことで、これまでのあたしも「出来た自分」、「出来るようになった自分」を手にしてきた。

学校時代を経て社会に出て、企業に就職して仕事に就く。仕事が出来る自分や、家のこと、身の回りのことをこなして行える自分になっていく。

10代から20代、そして30代前半なんて正にそんな流れで生きてきて、面倒に感じるあれこれはあれどこの流れは一般的といえるもので、あたしだけにある事情や事柄ではなくみんなそんなものだと感じていた。

身に付けたり出来るようになったりした数々は、仕事のこと等も含めて役に立った。


それが当たり前。

大小の違いは幾らかあってもみんな同じ。

みんなそうやって生きているんだよ。

どんな国の人でも、ただ助けを求めてお世話されるだけの難民みたいな人達じゃなければ、みんな成長して仕事をして生きているよ。


あたしは自分の考えることに全く疑問を持っていなかった。

何しろ日々のあれこれを行えるようになるほど出来て当たり前という内容が多く、出来なければ親に甘えるか、金を出してやって貰うか…そんな風になる。職場では、出来なければ白い目で見られて嫌われる😓

楽したいという気持ちが出てやって貰えたなら…と思わないわけじゃなくても、じゃあそうするとどうなるの?となると、結局は家でも会社でも地域でもやらない奴は嫌われるし、そういう人間だと思われて距離を取られるようになる。

あたし自身もそうするだろうからおあいこで、人間って決してどんなことでも快く受け入れられるわけじゃない。

テレビ等では、昔から「世界の苦しんでいる人達へ支援の手を!」みたいなCMをしていたけれど、自分を変えず働かずな人達に対して募金や支援を続けられる人なんてこの世の中にはいない。

子供の頃は、難民や貧しい人達を見ると可哀想だなぁと感じていた。それが、大人になるとそれは変化していった。

大人になり自分の稼ぎで生活するようになると、何故あの人達はずっと支援を受けているの?何故あの人達をずっと支援し続けるの?になった。

自分自身で生きられる状態を作れないなら普通は死ぬ。日本では時に「餓死」した死体が見つかり、ニュースになることもあった。それなのに、難民と言われるような人達はそうじゃなかった。いつも可哀想な立場でい続け、支援を受けていた。

彼らは世界各地からの支援を得て、育てる力がないくせに子供を作り、ただ座って赤ちゃんを抱っこしている。いつもそんな映像。いつもそうだった。

あたしはその状況におかしさを感じ始めてから、子供を抱っこして支援を受けている難民の女を見るとイラつくようになった。


あんなのはただの乞食だ。

物乞いをする乞食で、自分で自分を、環境を変えようとしない最低な人達。

出来ないんじゃない。あんなのは「していない」だ。何もせずに産んだ子供を抱いているだけ。

だから、支援するに値しない、本来なら死んでしまった方がいい人達。

自分の力で子供を育てていない、育てようとはしない。無責任なセックスをして子供を産み、その子供をも物乞いにして、物乞いをただ増やしている最低な人間。


あたしの感覚は自分で行おうとすることが増える度に変化し、親や家族に甘えられていた子供の頃に感じていたものから変わっていった。

結婚して子供が出来ると、社会的な模範になって正しい正しさを教えなければいけない状況が出来た。あたしは更に変わっていった。変わっていかざるを得なくなった…という方が正確だと思う。

いい加減でも良いとしていたあれこれが、「他人に正しく教え伝える」位置に立ったことで、いい加減なものにしていられなくなった。

自分の首を絞める程、「正しさ」という規格に自分をはめ込んで、その様を子供達に教える…というのではない。

分かりやすく伝える

嘘はつかない

正直に話す

自分のことは自分でする

不安でも行ってみる

本音を相手に伝える

悪いことをしたならそれを自覚し反省して謝る

これら等々、小学校の頃に大切だと教わったような、人としての基礎の基礎をしっかり出来なければならなくなった。

人間のあり方としてとても大切だとされてきた基礎の基礎的事柄がしっかり出来ていないと、「自分は出来ていないくせに!偉そうに言うな!」と子供達に思われ、信頼されない馬鹿で足らない奴になってしまう…という危機にあたしは瀕した。

責任をもって伝えなければいけないという熱意と、ヤバいなーという焦りとが入り混じる中、あたし自己改善をしつつ子育てに挑むことになった🥵


あたし自身のそんな道のりを、あたしは自分のことだからこそ知っている。

そうしていた時に、四苦八苦しながらも我が子とガチンコでやっていた親も知っているし、反対に酷く偉そうにしていた親も知っているし、見てきた。

自分のことを中心に置いて生きていたそれまでとは違う、結婚後の出産からの子育て体験。

人生の中で子供を産むという状態と育てるという状態に辿り着く状況を得た人達は、多かれ少なかれ自分のあり方が子供を通して問われるようになる。そこに言い訳は存在出来ない…。

子供が産むことがいいとか、産まないのは駄目という位置で見てしまう出産育児が世の中にはあるものの、出産育児はそんな位置で見続けていられるような悠長なものではなく、子供を産み育てる状況が出来てくると、子供がいない人はいない人の道を歩き、いる人はいる人の道を歩くことでどうにかことを進めていくことが出来る類が出産子育てというもの。

子育ては、他人のあれのれに気を取られてる暇なんてない😭

この話は、通じる人には直ぐに通じる話だと思う。適齢期を過ぎても子供がいないという人達も含めてで、それぞれの道の中でするべきことから逃げ無かった人なら分かること。


あたし自身は嫌というほど分かる。分かるようになった。

「あーあ、大変だなぁ」と感じる中で、自分を癒すために楽しんできたあれこれが幸せを感じさせてくれるものだったことも実感してきた。

時に子育てや家のことから離れて、自分の行うことに集中する。そんな時間はあたしにとってとても貴重で、価値のあるものだった。

次男の遥介が、習いたいから付き合って…と言って習い始めた茶道から、着物の着付けも習うようになり、10代20代では知る機会の無かった日本の文化や所作、日本的な整えや美意識等々を知れる機会が出来た。それらは思わぬ収穫で、あたしの人生感を豊かにしてくれた。

出産育児は大変という二文字ではとても片付けられない程だったけれど、そこから知れたこと、知る機会が出来たことはとても多く、子供の前で親だと偉ぶったり自分を誤魔化したりせず、たとえ失敗があっても至らなくても誠心誠意で子供と関わってきたなら、それが自分自身のあり方や人生そのものに影響するものになり、自分が正されていくものにもなることをあたしは知れた。

あたしはそうだった。


だからよ。

だからマキト達が心底憎らしく、殺したくもなったの。マキト達のような人のクズは、外道だとはっきりと分かることも出来た。

マキト達はネットで洋平を名乗り、芸能人を装う洋平の偽物まで作っていた。本人の承諾無しにブログを作り、世間に本人が書いていると思わせてもきた。

あたしは洋平との繋がりがあることを確かめるため、そのブログのコメント欄に洋平にだけ分かることを書いて投稿した。

そこからだった。

姿や名前を隠したマキトを始めとした馬鹿どもは、あたしと洋平の繋がりが強くなることを妨害するために、2ちゃんねるを始めとしたネットの各場所にあたしの実名や写真を載せて、事実ではないことを書いて広げた。

糸魚川に住む平山麻由美には、あたしに関する事実ではない嘘を、彼女の店に来る客にばら撒かせた。

洋平はそれらをどうにかしようとしてくれていたものの力足らずで、あたしと共に疲弊していった。

言われる覚えのないことまで言われ、書かれる覚えのないことまで書かれて広められたあたしは鬱状態になり、日々のこともままならないようになっていった。

それでも、その事実を家族に分かるようには話せない。

それは…マキト達のしていたことが、一般人にはとても理解されない難い内容ばかりだったからよ。

マキト達やゴミ女達はそれを承知で、気分良く当時のあたしや洋平をいたぶっていたわ。


それまでのあたしは日々のことを家族の誰よりもこなしていた。地域の活動にも積極的に参加していた。

子供ともあたしなりに向き合っていた。

けれどどれも意欲的に出来なくなり、苦痛でしかなくなった。時間が少しでも出来ると横になるしかなかった。

元気が出ない。やる気が出ない。辛い。しんどい。死んでもいい。

マキト達や馬鹿女達が日々行い、あたしに向けて出すあれこれでそう思うようになった。

悔しかったし切なかった。

そうしている者達は一切姿を見せない。2017年始まりからのことを誰がしていたのか?を知ったのは、2024年からのこと。

2016年までは、人並み以上にやっていた自分だった。したことの無かった茶道や着付けも習い、それらも出来るようになり楽しめるようにもなった。

家族の中で一番働き、やってきたあたしは、多くが自分の努力でだった。努力してやり、努力で出来るようになってきた。

それが、楽しかったはずの茶道に行くことが辛くなり、お点前をしても楽しめない。着物を着ることも疲れるようになった。

久しぶりの習い事の学びで、習って頑張って覚え、出来るようになり、日々大変だった自分を癒して楽しむものとなったはずの一つ一つまでもが壊れていった。

それがどれだけ悲しかったか。

切なく惨めだったことか。

あの頃のあたしは世界の誰よりも哀れだった。

その後に自分がどんな存在なのかを知ってきた今だから、そう思うの。

あたしは忘れていた過去でも、耐えながら自分の力でしてきた数々があった。その上で更にこれよ。

悲しくならないわけがない。現代のことだけでもあまりに悲しかった。

この人間のクズ!

馬鹿達をそう罵れるだけのものがあたしの中にはある。


それでも、このままではいなくない…と思ったあたしは重い腰を上げて、もう一度着物を着出した。

覚えたはずのことが思い出せなかったりもしたけれど、また本を見たり、動画を見直したりしながら、今度は自分の体に合うような着付けを自分なりにしてみるようにしていった。

人と関わることが苦痛になり、他人と目を合わせることに不安を感じるようにもなっていた。でもそれは本来の自分じゃない。あたしは外に出て、他人と関わり合うことで回復させていった。

医者なんてかかっていないわ。リアルのことは全て、自分で自分をケアしていった。

洋平との交流は精神が楽になるものではあったけれど、最低最悪なクズ男でしかないマキト達が洋平に成りすまし、していた数々があったからね。また疲れていくの。


あたしにとって、マキトや元大介達のような男は厄病神。それに乗っかる馬鹿女はまるでヒルかダニ。

自分の幸せを得るために必要な積み重ねを自分自身ではせずに、他人を落として、他人の物を盗んで、それらを得たから幸せだと思っているような馬鹿達。

分かるでしょ?

行いがどれだけ卑しく浅ましいことか。

馬鹿達は難民よ。

物乞いする難民と同じ。


人も他の生き物も、自分のために頑張り、自分が幸せだと思えるようになることをして良いし、するの。それが生きている自分を実感出来ることでもあるからね。

自分のために頑張り、自分が頑張ってきたことを知り、その結果得られたもので幸せを感じる。この過程で得たものを「実感」とも言うの。

実感出来たことは忘れない。

自分のためにやったことも忘れない。

それだから、自分のため…ではなく「あの人のために」となる状況が出来た時には、じゃあどうすれば「あの人のために」なるのか?が分かるし、自ら必要なことを行わないと「あの人のため」になることがあるようにはならないことも分かる。

他人を落としたり、他人の物を盗んだりしても、欲しい結果が得られないことも分かるの。

嘘や真似、偽物ではどうにもならないことも分かる。


あたしは、子供が出来て以降の一つ一つの積み重ねが、人として、生きるものとして、女として必要なものは何なのか?を知るものになった。

その結果、しなければならないこと、しなければ困ることも確かに知ることが出来た。

だから行うの。

するべきことをコツコツと行う。

それを本当は「仕事」と言うのだと思う。

必要だと知ったから行わなければならない理由も分かり、だからこそ行い続ける日々のあれこれ。

人間はそれを発展させて分業にもし、売り買いもするようになった。そのことを仕事と言うようになったけれど、本当は日々の中で必要であることを知って、だからこそ行い続けるようになったことが仕事なのだと思う。

現代の仕事は、仕事をしなければならない理由が分からないまま義務的に行うものばかり。職場で働く人の人間性や人間レベルもかなりの違いがある。

それだと上手くいくはずがない。

でも、そうしてきたのは馬鹿達でしょ。

多くの人々を馬鹿や間抜けにして、自分と同じような馬鹿が世間に増えることで身を隠してきたの。馬鹿達な自分のバカさを伝染させて、感染した人達を隠れ蓑にしてきたのよ。 


今度は生粋の馬鹿達が必要なことを考える番。

考えられないのなら嫌われる番。

距離を取られる番。

要らない人として見られてしまう番。

記憶があっても無くても、分かる人には分かるんだもの。

騙さない、騙しきれない。

日常の中で何が大切で何か必要で、何をし続けなければいけないのか?を知ってきた人なら、嫌でも感じるし分かってしまう。

人として足りない人はどんな人なのか?が、嫌というほど分かってしまうからね。

自分が幸せになれるのはどんな環境で状態なのか?も分かる。


ぜーんぶ、分かってしまうのよ。

面倒だなぁと思いつつも、それなりにやってくれば、望む望まないに拘らず分かるようになってしまうの。

それがあたしの人生で、あたしと同じようにやってきた人達の人生なのよ。

人として、生きものとしてのレベルなの。