・・・お待たせしました。
かれこれ2ヶ月もたってしまって、
「今さら」かもしれませんが・・・
3月末に行った東北ボランティアのレポ、書かせて下さい。
どうやって伝えたらいいか、公開すべきかどうか・・・
いろいろ悩み始めたら、なんだか深みにはまってしまって、
レポを公開するまでにすごく時間がかかってしまいました・・・。
でも、ある『出来事』、『出会い』から、
「私自身が見てきたこと、感じたことを素直に伝えればいいんだ。」
って思えたから・・・
私なりの言葉でも、伝える必要がある と感じたから、
思うままに、綴らせて頂きます。
読んで下さる方それぞれの背景によって、
感じ方もさまざまだと思います。
気分を害されたり、当時を思い出してしまったりすることも
あるかもしれません。
私も充分言葉を選んで書かせて頂きますが、
ふさわしくない表現等があったら申し訳ありません。
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今回は、初めてということもあって、ツアーでの参加にしました。
大阪からのツアーが少なくて、どれも満席だったため、
東京発のツアーで行ってきました。
東京までの行きは、いろいろ悩んだ末、
体力的なことも考えて新幹線で。
そして、東京駅八重洲口を夜に出発するバスに乗り込み、
東北道を通って・・・宮城県石巻市へと向かいました。
バスの添乗員も、ボランティアの方でした。
その方は岩手出身で、自分自身は大きな被害はなかったけど、
何か自分にもできることはないか・・・と、
ボランティアで添乗員をさせて頂くことにした と話してくれました。
そして、ボランティアを通して、地元の方から聞いた貴重なお話を
バスの中で語って下さいました。
『自宅にいる時に津波が押し寄せてきて、屋根の上に逃げたら
隣の家の屋根に、子供2人が取り残されていて、
助けなきゃ!と水に飛び込み、2人の子供を両脇に抱えて
必死に泳いで避難しようとしていたところに・・・
「助けてー!」と必死に叫びながら目の前を流されていく女性。
その時は「ごめんなさい!」と言うのが精一杯で・・・。
今は、その人の分まで、生きていこう!と決めました。』
そう話してくれた男性のお話。
『津波が引いて、自宅に戻ったときのこと・・・。
1階部分に、見知らぬ人のご遺体を発見しました。
しばらくは、1階部分はブルーシートで覆ったまま2階で暮らしていましたが、
やっとリフォームをすることに決めました。
そして、どこのどなたかは分からないけれど、
その方の分まで頑張って生きよう・・・そう思いました。』
と話してくれた女性のお話 など。
そのお話を聞いて、「生きる」ということの意味を、
本当に深く考えさせられました。
・・・・何箇所かサービスエリアに立ち寄りながら、
早朝に石巻に到着。
現地では、雪が積もっていて、
到着した時には、冷たい雨が降っていました。
いくつかの電柱?外灯?以外は、一面雪が積もった平地。

それぞれ朝食を取った後、さらにバスで1時間ぐらい??で、
実際にボランティア活動をする場所、牡鹿半島に到着。


いくつかの建物とガソリンスタンドがある以外は、
駐車場のように砂利が敷き詰められたような広い土地が
広がっていました。
・・・ところで、「牡鹿半島」って、どこにあるかご存知ですか?
岩手県から宮城県に南下して、三陸海岸の南端にある、
太平洋側にひょこっと突き出た半島が牡鹿半島です。
ちょっと見にくいですが、現地で頂いた資料に載ってた地図を
載せておきますね。

・・・到着して、まずは活動しやすい服装に着替えました。
(男女交代でバスの中で着替えました。)
3月末とはいえ、所々に雪も残るほどの寒さ。
防寒対策は必須。
私は、上は、ヒートテックに長袖Tシャツやジャージなどを
着込んだ上に防寒・防水のウィンドブレーカー。
下は、タイツにジーパン&ウィンドブレーカー。
そして、ニット帽・マスク・軍手+ゴム手袋・長靴・・・という服装。
周りの方々も、大体同じような服装でした。
その後は、拠点となっている旧牡鹿公民館の中へ。

現地のボランティアの方がお話をして下さいました。
地図でもわかるように、海に囲まれた牡鹿半島は、
震災の津波で、壊滅的な被害を受けたそうです。
中心となっている漁業や養殖業も甚大な被害を受けました。
また、震災によって牡鹿半島は、震源のある東南東に
約5.3m移動し、約1.2m地盤沈下する・・・
という観測史上最大の地殻変動がありました。
でも、主要都市と比べてメディアに取り上げられにくく、
ボランティアが集まりにくいこともあって、
復旧作業・復興作業も遅れている とのことでした。
島に住んでいた4500人のうち、約1/3は島外に流出してしまい、
特に若い世代を中心に島を離れてしまっているとのこと。
「また、この島に戻ってきてもらえるように・・・」
「『また住みたい!と思える状態まで復興させること』
を目標に活動をしています。」
というボランティアスタッフの言葉が、強く心に響き、
私自身、ずっとこの言葉を思い出しながら活動していました。
・・・後から分かったことですが、
現地で指揮して下さっていた若いボランティアのお兄さんは、
現地の方ではなく、東京からボランティアに来ているとのことでした。
凄く凄く、頭が下がる思いでした。
そして、その後に見せて頂いた、震災当日の映像。
本当に衝撃を受けました。
映像は、高台から撮影されたとのことですが、
目の前の建物が次々に水に押し流されていました。
同じような映像は、震災直後、何度もTVで見ていましたが、
改めて目の当たりにして、言葉を失いました。
一番衝撃的だったのは、
今、自分が立っているこの地が、
波に飲み込まれた地であること。
そして、自分が今、目にしている光景は、
震災前とは変わり果てた姿であること。 でした。
この場所に到着した時にバスを停めた場所も、
駐車場なんかではなく、家が立ち並ぶ住宅街で、
映像では、その家々がみるみるうちに津波に飲まれていきました。
私たちが映像を見せてもらった牡鹿公民館の1階部分も、
すべて浸水した状態でした。
・・・後から公民館の外に出て見てみると、
1階部分の窓ガラスはすべてなくなっており、
木の板がはめ込まれていました。

この後、ボランティアの活動場所に向かいます。
・・・つづく。