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今日は、「大好き」について気付いたことを。

 

 

 

昨夜、友人からこんなメッセージが来た。

「ゆかりちゃんに愛されているんだと
ふつふつと伝わってきて
心からありがたいなぁと思っている」

 

 

 

 

この文章を見て、
自分自身の

「大好き」への意識の変化に気付かされた。

 

 

 

 

この友人のことは、もちろん大好きで、

考えてみると

わたしは日常的に、彼女に

会いたかったら「会いたい」と伝え、

話したかったら「話したい」とメッセージをする。

 

 

今、わたしは

そうしたいなら、

どんな人にもそうしているし、

 

逆にそうしたくないなら、

どんな人にもそうしない、

をやってる。

 

 

 

 

 

「愛」という言葉は、

いまだ、わたしにとって

その定義は実に曖昧で、

 

誰かを「愛している」という自覚もなくて、

 

「愛」とは、わたしにとって、

もしかしたら、この世界で一番曖昧なもの

なのかもしれない、とも思う。。

 

 

 

 

だから、友人のメッセージに

「愛されている」

という言葉を見たとき、

わたしが愛しているかどうかはわからなかったけれど、

 

 

ひとつだけ!

 

人に対しての感情の働き方が

全く変わってる自分に気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

「大好きなら、ただ、今、大好き100%でいる」

 

 

 

いま、わたしは

それが出来ているんだと思う。

 

 

 

 

少し前までのわたしは、

 

大好きな人にほど、

その人を大好きになりすぎないように

無意識に

ブレーキを同時にかけていた。

 

 

 

 

 

20歳のころ、

当時の彼のことが大好きだった。

 

心からリスペクトしていたし、

日に日に、わたしは彼に魅了されていった。

 

そこには、

はじめてこんなに人を大好きになる

大きな喜びとともに、

自分のコントロールが効かなくなる

大きな怖さもあった。

 

 

大好きになればなるほど、

いつか、別れが来たとき、

耐えられないだろうという恐れ。

 

 

そのうちに、

わたしは、

大好きな彼と一緒に居ながら、

心のどこかで

「別れ」をシミュレーションし、

それに耐えられる自分を想定し始めた。

 

 

 

目の前に彼は居るのに。

わたしを大好きでいてくれるのに。

そして、わたしも彼を大好きで、

とっても幸せなはずなのに。

 

 

わたしの心の中は、

いつもどこかで

別れを受け入れられる

強い自分を鍛えていた。

 

 

「強くならなきゃ」

当時のわたしの口癖だった。

 

 

わたしは、

彼と一緒に居ながら、

心は

まだ起きてもいない未来という幻想の中に居た。

 

 

 

 

結局、彼とは8年ほど付き合って別れた。

 

別れはわたしから切り出したし、

わたし自身が、別れで押しつぶされないよう、

ちゃんと対策をしたうえでの

別れだった・・・

 

 

 

 

彼、だけじゃない。

友人にも。

 

振り返ってみれば、

わたしは

大好きが大きくなればなるほど、

大好きにならないよう、

いつもどこかでブレーキをかけてきた。

 

 

大好きになることは、

別れが来たとき、

わたしを傷つける。

傷つく程度が予測できなければ出来ないほど、

わたしは

大好きをやめるよう

色んな手立てを脳内で考えていた。

 

 

わたしはずっと、

無防備に

誰かを大好きになることを

自分に許可できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

昨夜の友人のメッセージは、

無防備に、

誰かを大好きになることが出来ている自分に

気付かせてくれた。

 

 

会いたいなら、会いたいと言う。

話したいなら、話したいと言う。

嫌だったら、嫌だったと伝えるし、

ステキなら、素敵ー♪と全力で伝え、

テンション上がる。

 

 

そういえば、

これ、友人だけじゃない。

 

 

 

先生という立場が上の人にも、

夫にも、

子ども達にも、

義母にも!!!w

 

 

義母にも、っていうのが

わたしの変化を一番感じさせてくれるけど(笑)

 

 

 

 

 

 

いつのときからか、

 

わたしは、

傷つくだろう出来事を想定して
大好きにブレーキをかけることを

しなくなってる。

 

 

 

「大好きなら、ただ、今、大好き100%でいる」

 

 

 

 

これ、逆もだよ。

 

「嫌いなら、ただ、今、嫌い100%でいる」

 

 

 

そして、

大好きも、嫌いも、

ずっとは続かないとも知ってる。

 

その時々で、

どんな気持ちが湧き上がってくるかはわからない。

 

 

 

 

ならば、

今の思いに100%正直に居よう

 

 

 

 

そう思い始めて、

実践しはじめてから、

 

少しずつ、

わたしは変わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、

わたしは

子ども達だけには、

それが出来ていたようにも思う。

 

 

子ども達は

どんなことがあっても、

どんな嫌なわたしを見ても、

わたしから離れることはない。

 

その根拠のない安心が

「無防備の大好き」

を叶えていたんだろう。

 

 

 

この「無防備の大好き」を感じたとき、

 

これが

「無償の愛」という感覚なんだな・・・

と思う。

 

 

なんの条件もない、

ただの大好き。

 

 

 

 

 

 

さっき、

「愛」とは何かわからない

と書いたけれど、

 

 

「無償の愛」を感じながら

愛について思いを馳せると、

 

 

わたしにとって

「愛」とは、

 

わたしが完全にナチュラルで在るとき、

 

存在そのものが「愛」なんじゃないかと。

 

 

それは、あまりに

ナチュラルで

あたりまえすぎるから、

定義することが出来ないのかもしれない。

 

 

あたりまえに呼吸をし、

そこにある空気を説明できないのと

一緒かもしれないなと、

ふと思った。

 

 

 

 

別の言い方をするならば、

 

 

わたしが

あまりにあたりまえで

100%ナチュラルで在るとき、

わたしは自分自身に何も求めていない。

わたし100%であることを
わたし自身が、ただ受け入れている。

 

わたしにとって、

「無条件の愛」とは、

 

「無条件の受容」

でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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