今日は遠方からお客様が来られていて、

竹生島→多賀大社→びわこテラス
へとお連れしました。


多賀大社さんでのおみくじ。
今年初の大吉でした。
そのときはワーイ🙌と喜んで、とにかく持ち帰ろうと思ったのですが、いま再びみて、考えさせられています。



心に一点の曇りなく鏡のごとき人は大吉なり。
些かにても心に欲心の曇りあれば大凶なり。

世の為人の為に尽くすような奉仕の大願は神の力を得られるが我が身の小願は叶わず却って災いを受ける。



これ、引くべくして引いたおみくじなんじゃないのかな?って。

改めて思いました。





わたしは人の曇りが気になるのです。
それこそ、一点の曇りが気になる。


なぜみんなは気づかないのだろう?
わからないのだろう?

それがずっと辛かった。



昔々の記事でも似たようなこと書いてますけど。




曇りのない自分でいるからこそできることがある。


生きづらいからって、曇らせなくていい。

生きづらさは土の時代だったから。

これからは風の時代の活かし方がある。



それを言われているように思いました。




曇りは違和感です。

濁りとも言える。


水の中に1滴だけ違う色が入っても混ぜてしまえば、あんまりわからなくなる。なんとなく透明のまま?そんな感じ。


逆に水の中に違う色を8割9割入れても、もともとその色だったかのようになってわからなくなる。

青なら青。黒なら黒。もともとその色だったように偽ることができる。




わたしはそれがわかる。






いわゆる能力者の方にも相談したことがあったけど、


気にしすぎと言われたり、自分の方が優れたアンテナであることを暗に伝えられたりしました。


ショックでした。




気にしないように努力もしたけど、自分に備わっている元々の機能だから、消すことはできなかった。


その能力者の方々の力が強すぎるがゆえにわからない微細なところではないのか?と今は思います。強すぎるがゆえの鈍感さ。


その強さも羨ましいと思ったこともあるけど、鍛えてなんとかなる類のものではない。





小さな曇り、濁り、、、それってほっておくと大きな大きなズレになる。



影響力の強い人ほど、届く範囲が広いほど、小さなズレでも、大きなズレとして伝わると思う。

そこの責任は要るのでは?と思うのは求めすぎなのだろうか。


そういう人ほどチェック機能に優れた人材を側に置くべきでは?とわたしは思うけど。




力を持ちすぎた、お金や名誉を得たために、曇りに気づきつつも辞められない降りられない、ということもあるんだろうなと思う。


多少の濁りはあっても、お金が欲しい。そういう感じなのかなあ。お金はあったらいいものだと思うし、わたしも欲しいけど。濁ったままいるほうが辛そうだ。


なんだかなあ。



どの選択をするかは各自の自由。

自由ですけど。






書いていて思ったけど、

よく考えたら、わたしにしかない感覚を、わたし以外の他人に相談するっておかしな話ですね。





自分が善人とは思わないけど、


心に一点の曇りなく鏡のごとき人


は、わたしのことなのだと思いました。




曇りない状態でいるから、わかることがある。





月ライジングの方と似ているけど少し違う。

どう違うのかまだまだ言語化できないけど、、、


違いはあるけど月を背負っている人と同じ言語で話せるのは随分と癒しになっている。

そういう人たちが目の前に現れてくれたことを本当にありがたく思っています。ありがとうございます。






自分の感じ方見え方を自覚して、使い方を工夫する。そして役立ていく。


それがいよいよできる時代になったのだ。


過去には邪魔でしかなかった能力。

過去には誰にもわかってもらえなかった能力。


それをいよいよ発揮できるのだ。




そう思えるようになったのは、成長して、少しは強くなったから。(だとうれしいな。)