vivienne sato -2ページ目



豊島区内のいくつかの商店街をはじめとするスポットを「景トラック」とばれる自動車で廻り、地元の人々との観察や交流から様々な「景」を受け取って、それを最終的に東池袋中央公園に集結展開させる試みが、『移動祝祭商店街 歩く庭』だ。

セノ派とは、舞台の舞台美術や場面を表す「セノグラフィー」からくる。いわゆる演劇の戯曲や俳優を前提としない舞台装置を起点と考えたコレクティブ集団だ。
従来の戯曲や俳優を使わないということは、「出来事」とは予測できない非予定調和なものであり、登場人物は代理という役者という役割を持つ人間ではなく、生身のそこの現実の世界に生きている人々が登場する。「演劇」と呼ばれている人工的に作られ展開された閉じられた世界観ではなく、現実の社会生活から生まれたある意味、自然発生的な完全に開かれた世界観に焦点を当てる。通常は、現実の出来事やさまざまな経験から戯曲が書かれ演劇が作られていくとしたら、このプロジェクトはその逆。現実の街中で起きた自然発生的な「出来事」や交流を「景」として収集していき、それを戯曲や演劇的な見方を使って考察/解釈していくという試み。
それは演劇を通して演劇の先にある現実の社会を見るのではなく、現実の社会が前提にあり、そこから演劇的見方を使って社会を切り取り考察していく姿勢か。

具体的に7つのプロジェクトの紹介をする。
⭐︎「染井」地区。ソメイヨシノ発祥の地でもある染井では、植物との関係に焦点が当てられる。植物、葉脈、根、古地図、断層といったタームも。「ソメイヨシノは枝振りと同じ範囲に根が張っている」という話から不可視の地図のようなものが浮かび上がる。
⭐︎「池袋本町」地区。線路と道路で囲まれた地域はまるで鳥籠。その中央の空き地に位置する巨大なアロエが頭から離れず妄想として膨らむ。エリアによって街灯が変えられ、その街灯は地域の拠り所となっている。同時に空へと自由に誘っている装置にも感じられる。それらをバルーンを使用して再現。
⭐︎「南長崎・東長崎」地区。担当者が20年前に住んでいたエリア。以前はたくさんの銭湯があったらしい。40cm四方のふたつの箱類を制作。「音の箱」はその地域で「手放して良いモノ」を譲ってもらい、モノと音が収める。もうひとつ「歩く箱」で東池袋中央公園内で自由に移動する箱として出現。
また様々な商店街を区別し他の商店街へと誘う街灯に着目して、「商店街灯草」というフィクショナルな珍しい植物も生息。
⭐︎「聴く庭ラジオ」大塚地区。10/9、10の10:00−16:00に30分おきに時報のようなラジオ放送を行う。

それらの収集されてきたモノ、現実と想像が入り混ざったモノが、東池袋中央公園に展開された。
https://tokyo-festival.jp/2021/program/sceno-ha

豊島区内の幾つかの商店街を中心としたエリアから集められた経験やモノたちは、現実や虚構が入り混ざり、東長崎中央公園に再現され展開され発展していった。
公園内はあたかも回遊式庭園のように様々な「景」が園内を移動する毎に次々と展開さて、そこでは幾つもの次元が重なり合い、お互い共鳴しているようだった。
そして、この公園こそ東京裁判が行われた巣鴨拘置所跡という最強の磁場を持つ場所であり、現在公園になってからは多くのホームレスが住み、屯ろし、炊き出しが行われている場所でもある。ホームレスの人々のプライベート倉庫のように私物が木陰や見難い場所に、丁寧に美しくブルーシートで包まれ大事に保管されてもいる。いったいそこには何があると言うのだろうか。また多くの野良猫が集まる場所としても有名だ。

そのように豊島区内の非予定調和な出来事や出会い、交流、経験から切り取られたモノたちでさえ、ここでは予定調和なモノなのかもしれない。
そこにはアートと自然発生的な静かな競合や衝突がある。

様々な出来事や景色を何枚も重ね書きをし、貫入し、断絶させた実験的な公園がパリにある。
バーナード・チュミによるラ・ヴィレット公園だ
1980年代に、パリの屠殺場跡地をデリダの構想を元に、グリッド上に様々なフォリーを置いて展開させて作られたものだ。軸線、芝生、遊具施設、文化施設、商業施設など様々なダイアグラム的手法で配置され、レイヤーが重ねられた公園は、その固有の場所に居ながら非在の場所へと転換していった。
例えば、そこでは映画『フランケンシュタイン』の怪物と博士の格闘シーンの身体の動きをトレースして、その動線をフォリーのデザイン基礎にしたものなど、ユニークなデザイン手法も取られた。

https://tokyo-festival.jp/2021/tfcommunicator?fbclid=IwAR0Z8q9eRBpmxforH8JiGfvm5P8j9ip0-1q23o1bEc3X5K32ZKEOu9s0lB0

#TFcommunication #東京芸術祭 #セノ派 #東京芸術祭2021フェスティバルコミュニケーター #歩く庭
#移動祝祭商店街










豊島区内のいくつかの商店街をはじめとするスポットを「景トラック」とばれる自動車で廻り、地元の人々との観察や交流から様々な「景」を受け取って、それを最終的に東池袋中央公園に集結展開させる試みが、『移動祝祭商店街 歩く庭』だ。

セノ派とは、舞台の舞台美術や場面を表す「セノグラフィー」からくる。いわゆる演劇の戯曲や俳優を前提としない舞台装置を起点と考えたコレクティブ集団だ。
従来の戯曲や俳優を使わないということは、「出来事」とは予測できない非予定調和なものであり、登場人物は代理という役者という役割を持つ人間ではなく、生身のそこの現実の世界に生きている人々が登場する。「演劇」と呼ばれている人工的に作られ展開された閉じられた世界観ではなく、現実の社会生活から生まれたある意味、自然発生的な完全に開かれた世界観に焦点を当てる。通常は、現実の出来事やさまざまな経験から戯曲が書かれ演劇が作られていくとしたら、このプロジェクトはその逆。現実の街中で起きた自然発生的な「出来事」や交流を「景」として収集していき、それを戯曲や演劇的な見方を使って考察/解釈していくという試み。
それは演劇を通して演劇の先にある現実の社会を見るのではなく、現実の社会が前提にあり、そこから演劇的見方を使って社会を切り取り考察していく姿勢か。

具体的に7つのプロジェクトの紹介をする。
⭐︎「染井」地区。ソメイヨシノ発祥の地でもある染井では、植物との関係に焦点が当てられる。植物、葉脈、根、古地図、断層といったタームも。「ソメイヨシノは枝振りと同じ範囲に根が張っている」という話から不可視の地図のようなものが浮かび上がる。
⭐︎「池袋本町」地区。線路と道路で囲まれた地域はまるで鳥籠。その中央の空き地に位置する巨大なアロエが頭から離れず妄想として膨らむ。エリアによって街灯が変えられ、その街灯は地域の拠り所となっている。同時に空へと自由に誘っている装置にも感じられる。それらをバルーンを使用して再現。
⭐︎「南長崎・東長崎」地区。担当者が20年前に住んでいたエリア。以前はたくさんの銭湯があったらしい。40cm四方のふたつの箱類を制作。「音の箱」はその地域で「手放して良いモノ」を譲ってもらい、モノと音が収める。もうひとつ「歩く箱」で東池袋中央公園内で自由に移動する箱として出現。
また様々な商店街を区別し他の商店街へと誘う街灯に着目して、「商店街灯草」というフィクショナルな珍しい植物も生息。
⭐︎「聴く庭ラジオ」大塚地区。10/9、10の10:00−16:00に30分おきに時報のようなラジオ放送を行う。

それらの収集されてきたモノ、現実と想像が入り混ざったモノが、東池袋中央公園に展開された。
https://tokyo-festival.jp/2021/program/sceno-ha

豊島区内の幾つかの商店街を中心としたエリアから集められた経験やモノたちは、現実や虚構が入り混ざり、東長崎中央公園に再現され展開され発展していった。
公園内はあたかも回遊式庭園のように様々な「景」が園内を移動する毎に次々と展開さて、そこでは幾つもの次元が重なり合い、お互い共鳴しているようだった。
そして、この公園こそ東京裁判が行われた巣鴨拘置所跡という最強の磁場を持つ場所であり、現在公園になってからは多くのホームレスが住み、屯ろし、炊き出しが行われている場所でもある。ホームレスの人々のプライベート倉庫のように私物が木陰や見難い場所に、丁寧に美しくブルーシートで包まれ大事に保管されてもいる。いったいそこには何があると言うのだろうか。また多くの野良猫が集まる場所としても有名だ。

そのように豊島区内の非予定調和な出来事や出会い、交流、経験から切り取られたモノたちでさえ、ここでは予定調和なモノなのかもしれない。
そこにはアートと自然発生的な静かな競合や衝突がある。

様々な出来事や景色を何枚も重ね書きをし、貫入し、断絶させた実験的な公園がパリにある。
バーナード・チュミによるラ・ヴィレット公園だ
1980年代に、パリの屠殺場跡地をデリダの構想を元に、グリッド上に様々なフォリーを置いて展開させて作られたものだ。軸線、芝生、遊具施設、文化施設、商業施設など様々なダイアグラム的手法で配置され、レイヤーが重ねられた公園は、その固有の場所に居ながら非在の場所へと転換していった。
例えば、そこでは映画『フランケンシュタイン』の怪物と博士の格闘シーンの身体の動きをトレースして、その動線をフォリーのデザイン基礎にしたものなど、ユニークなデザイン手法も取られた。

https://tokyo-festival.jp/2021/tfcommunicator?fbclid=IwAR0Z8q9eRBpmxforH8JiGfvm5P8j9ip0-1q23o1bEc3X5K32ZKEOu9s0lB0

#TFcommunication #東京芸術祭 #セノ派 #東京芸術祭2021フェスティバルコミュニケーター #歩く庭
#移動祝祭商店街








 原作:太田省吾 振付・演出:きたまり   

沈黙劇の太田省吾の戯曲原作を、言葉を完全に排したダンスと演奏のみで上演する試みと聞いて、興味を持たない訳はない。
ダンサーのきたまり/KIKIKIKIKIKIが振付と演出、そして出演した太田省吾の戯曲『老化夜想』のダンス公演が、東京芸術劇場シアターウェストで、10/22−24に行われた。(本公演はアーカイブ配信を予定)
それも『老化夜想(ノクターン)』に登場する男女12名の登場人物をたったふたりの踊り手が演じきる。そして、唄・囃・三味線・太鼓・声楽の生演奏を背景に、四本の柱だけのミニマルな舞台装置と強烈な照明のみ。
テーマは年老いた老娼婦`はな`を通しての「老い」。身体と場所に積層され、ときには置き去りにされた時間や記憶だ。
置屋である「ホテル月光」で繰り広げられる物語は、こちら岸と向こう岸、密航船の客と逃げる娼婦、盲目の兄と妹と男(妹の夫)との三角関係などが展開していく。はずだった。

きたまりと竹ち代鞠也の、最初から最後まで気が抜けない緊張感溢れるふたりの間に形を変えつつ存在する「間」や「関係性」は、ゆうに言葉を超越した饒舌と信頼を表出させる。その阿吽の呼吸で支えられている間合いと踊りは、ミニマルだが豊かで相互の関係性を補完し合い、ときには反発し、ときには独舞を支え、そして調和/不協し倍音のような第三第四の演者すら見えてくるようである。
全体の演出も卓越しており、通常褒め言葉ではないときによく使用される「演劇的」という言葉だが、一般の演劇よりもずっと「演劇的」で、劇的で素晴らしい舞台であった。それは激しくもあるのだが、どこか暖かさや優しさが見え隠れする印象を持つ。
そして、何よりも二人の身体能力の凄まじさと一瞬も気が抜けない時空間に、我々が単なる鑑賞者・傍観者というよりそこに参加して居合わせている一員のように思えてくる。客席が安全で別世界な場所ではなく、固唾を飲んで見守らねばならなく強いられ、観客一人一人が集団ではなく、個に分解され身動きできない状況にさえ陥った。個人が舞台に直面し舞台に包括されてしまうような感覚だ。

しかし、別の見方をするとある種の謎や不可思議さも見えてくる。
この太田省吾の戯曲『老化夜想(ノクターン)』を、会話言葉を一切排除して完璧に写し取り、ダンスのみで再現はしていない。むしろ独自に解釈し語り直す実験的な作業にも思えた。
『老化夜想』は、3人の世代の異なる娼婦、そして女将、主人、ゆうぞう、役人、客、盲人と妹、男、密航者マドロスが登場し展開していくが、この舞台ではそれらの具体的な物語としては描かれはしない。
今作は太田省吾の三番目に書かれた戯曲である。『乗合自動車の上の九つの情景』、『黒アゲハの乳房』、『老化夜想』からなる「沖縄三部作」と呼ばれているもので、本人曰くたった三枚の沖縄の写真を見ながら、しかし実際の写真とは関係なく書かれたという。
どの写真も戦後アメリカとの軋轢からなる写真である。しかし、当時の日米の社会政治状況とは全く関係なく、それを拒否することで、わずかに本人の自己を保有する姿勢を取り、太田と沖縄の人々との関係を「同胞」という言葉でつなげようという意識があったという。そして戯曲の中には一切「沖縄」という具体的な地名は出てこない。
この『老化夜想』は、「小さなベットの端に乗りきらないほど大きな尻をした、老娼婦」の写真から想起されたという。

私見であるが、今回のダンスによる舞台は「沖縄三部作」の一番最初の『乗合自動車~』の要素が入り込んでいるのではないか、いやむしろ『乗合自動車~』を原作にした舞台ではないかと印象を受けたほどだ。
鳥や魚を合わせて、総勢12名の登場人物で構成されている。構成は葬儀人、歌手、車掌、闖入者、犬番、男、女教師、おばさん、娘、男ハッピー、そして鳥と魚だ。昼間の国で居場所を失った10名が夢のバスに乗り込み繰り広げられる。
作中「闇が歩き出す」という表現がなされ、闇主体の世界が描かれていく。そして「武器は役に立たない」。なぜなら武器は昼間に作られるから、この闇の支配する夜の世界では武器は何の効力を持たないという。昼の世界の武力や政治とは一切隔たれた別世界なのである。夜に破壊することになる煙突は、空虚の象徴で蝉の抜け殻のようであるとも。今作の舞台上に出現する四本の吊るされた空虚な柱そのものではないか。
闇主体の世界に存在する小さな燈は、その周囲を包み込む闇のために必要であった。その小さな燈を点けていたのは娼婦にまつわる人々ではなく、老人と少女で、老人は手元を明るくするためではなく、それは突き進む闇のためであったに違いない。それほど光と闇はふたりの関係性をして交歓しあっていた。まさにこの舞台のダンサーふたりの関係性に他ならないのではないか。
そして、その光景にはある種の「優しさ」があるという。それは人間が何ものかを喪失した際に初めて手に入るようなもので、人にとってその「優しさ」とは、それ以外は代替えできない人間の最後の態度だ。それは他によって犯すことのできない、「沈黙」に通づる最後の態度である、と。

この舞台上のふたりダンサーが作り出す「間」は、優しさと沈黙を饒舌に語っていた。

https://tokyo-festival.jp/2021/program/kitamari

https://tokyo-festival.jp/2021/tfcommunicator

#TFcommunication #東京芸術祭 #きたまり #きたまりKIKIKIKIKIKI #老化夜想ノクターン #老化夜想 #太田省吾 #東京芸術祭2021フェスティバルコミュニケーター