社会を見渡すとこの世の中にはどれほど沢山の犯罪がひしめき合い、隣り合わせに共存していることだろうかと唖然に思うことが時々ある。街中等で出逢う人、出会う人、皆夫々の家庭環境や幼少期をおくってここまで育って来た結果、目の前にいるのであり、これは絶対に動かす事の出来ない事実なのだ。その人各人がどういう過去を抱えているかや、痛みや悲しみを押し殺して個々まで来ているか、それは他人には本当の所では分からないものだ。
人が変わったと良く人は言う。その人が昔はとても感じの違う人だったのに、数年会わないだけで、とても変わってしまった様に感じたりするのは、決して勘違い等では無く、その人夫々がそこに至るまでに蓄積した個人体験の集大成の表れなのだろう。悲惨な家庭環境の中で育てられた子供が、その親から屈折した愛情や暴力の中の境遇で育てられても、その後歳を重ねる事さえ出来たなられば、個々の心の紆余曲折による成長はあったにしても、生きて行く力だけはどういう形であれ育って行き、何かしらの形で過去を糧にする事が出来るチャンスがあるかも知れない。そんなチャンスが虐待という結果で奪われてしまっている事はある意味では異常であり、しかも生き残った場合でもそれが実の親によって行われたときに子供が抱えるトラウマは、第三者が計り知れるものでは恐らく無くなっているだろう。先進国である筈の日本で、現在のところ年間で約3万近くの子供達が、昔であれば孤児院送りの状態である疑いが強いという事実も、また一つの大きな社会問題である。
身体的暴力、性的暴力、ネグレクト、そして心理的虐待等。特に近年では女性の精神的弱体化もこれに拍車を掛け、専業主婦に憧れ男性の庇護の下に安住を望む保守的価値観の蔓延と女性個々の男性依存が顕著に出て来ている。金銭的、更には社会的な存在意義までも男性に依存する歪な男女関係に於いては、女性に対する権利を男性が牛耳るケースが多く見られ、家庭的問題等様々な問題の中で暴力と虐待が常態化してしまっている場合には、基本的にはそもそもの夫婦間の個々の人間関係の未成熟さの捌け口の一つに、それがそのまま子供へ対する態度等へ向けられてしまう事が考えられる。
そんな様々な境遇の中で、子供は親を亡くし、或は親から逃げ出し、あるいは捨てられて社会からは戸籍や住民票という人権的存在意義すら曖昧な状態におかけるような存在として生きて行かねばならない境遇の子供も少なく無い。または少年院あがり等と言う事例は枚挙に暇が無くこの日本には溢れている。
そんな彼らの受け皿の一つと成っているのが、古参の暴力団的な組織や裏組織的とする見方も有るだろう。最終的にそうした心の闇を抱えながらも基本は同じ人間である彼らに、人間的な親代わり、もしくは教育の場、社会に存在する意義を奴隷という形で与えてやっているという、持ちツもたれるの関係性が成立しているというのが、彼らの言い分だろう。しかし、そんな仁義を重んじる本業のヤクザは規制緩和によって陰が薄れ、今ではその他に何かを社会が差し伸べられるものが必要とされる。だが、そんなものがあるとすれば、それは何かと言えば、例えば一時的な支援であったり彼らを何か忘れさせてあげようと、1年で1日だけ孤児に無料開放する等して、遊園地に連れて行ってあげる等といった、見せかけの夢や企業のイメージアップ演出の一翼を担う様な事に体験させてあげる事ではないだろう。
日本には桃太郎という物語が、子供に聞かせる話として受け継がれている。腹ぺこの犬と猿とキジを吉備団子で空腹を満たしてあげる事と引き換えに、彼らは桃太郎の奴隷となって命懸けて鬼退治をさせられるヒットマンにさせられるのである。これは昔から仁侠団体等の裏組織の常套手段で、その歴史は今も脈々と受け継がれ、更には社会的にはその事が美談であるかの様に、裏組織を社会福祉の担い手の様に称賛する声まである。
人が社会に出て行き方にも人夫々千差万別有るだろうが、例えば非合法な出来事や物事そして物品は隣り合わせに存在する。友達を作れば作る程、何処かで必ず非合法な物事や組織等に加担している人とは巡り会うし、または自分自身もそれに加担してしまう人も少なくは無いだろう。
世間で見たり聞こえたりするニュースで、表面化する出来事は主に都心部が多いが、それは神戸や東京や名古屋、又は大阪と言った新聞社の記者が足で動ける範囲内と警察の記者クラブが置かれた範囲内というのと、他には、それでも氷山の一角でしかなく、一般の企業の中でさえ労災による過労死、もしくは製鉄場等で死亡してしまう労働者等の情報は一切部落の外には洩れない仕組みに社会的には成っている。
身の回りで行方不明や亡くなった等の出来事は意外に多いものだが、その一部抜粋が記事になり、世間の中で隣り合わせの生活を営んでいる人々にしてみれば、感覚としてはこの事は記事になったか、もしくはこの事は記事に成ってないか等は、日常の生活の中で肌で感じ易いものになっている。
そんな社会の中にあって、一時的にラリる快楽を与えるのではなく、自らの知識をゼロから蓄えられる場所が社会の中でどれほど重要かという事である。要は、図書館の存在をもっとオープンに、開放的にする事ではないだろうか?
読み書き能力の乏しい人々は臆する事無く図書館の中の国語の教材の箇所に行って、知識を蓄え、例えば図書館によっては新聞等の情報に触れられる機会もあったり、様々な文学小説に触れる機会等もある。ネットカフェ等で籠っているより、よっぽど将来的な知識的投資に結びつく様な物事を蓄積出来る筈である。
世の中で他人から教わる事の基本は、使い易くする為に教えるに過ぎず、過度に賢く自我で自発的に思考や考えを発展していく事は好ましく無いのが、実状だ。そういう意味で、実際にも機能しなかったが、ゆとり教育の神髄はそもそもが日本社会の理念と構造に合っていなかったのである。人が人に使われてしまう原因の一つには、主に全てに於いてまず無学さがある。組織が都合の良い人間に造り上げる為の洗脳講習や研修ではいつまで経っても、個人の学は身に付かない。
過去の富豪と言われた人々は様々な財団を設立しては、図書館の寄贈に全力を尽くした。社会が行わない福祉事業をギルデッドエイジの立役者であるまさに彼らが、その役割を還元し担ったのである。
図書館を無理にクリーンで綺麗でハイセンスでエレガントでオシャレにする必要は無い。金持ちは自分の金で本を買えるので、むしろ図書館は貧乏人の為の福祉施設である。いじめられた子供や、問題を抱えた児童が駆け込める様な場所でもあっても良いだろう。サフィスケイテッドな雰囲気の中で訳も分からずブランドネームに任せたままのコーヒーを飲んで、そこでの談議に華を咲かせたい人々は勝手にスタバにでも行けば良い。図書館の公共性は、政府が右を向けば右という低俗な公共放送に成り下がったNHKとは一線を画し、様々な人々が互いに支え合って情報を静かに共有し交換し、社会に対峙するような、そんな場所で有るべきではないだろうかと、思う今日このごろであった。
人が変わったと良く人は言う。その人が昔はとても感じの違う人だったのに、数年会わないだけで、とても変わってしまった様に感じたりするのは、決して勘違い等では無く、その人夫々がそこに至るまでに蓄積した個人体験の集大成の表れなのだろう。悲惨な家庭環境の中で育てられた子供が、その親から屈折した愛情や暴力の中の境遇で育てられても、その後歳を重ねる事さえ出来たなられば、個々の心の紆余曲折による成長はあったにしても、生きて行く力だけはどういう形であれ育って行き、何かしらの形で過去を糧にする事が出来るチャンスがあるかも知れない。そんなチャンスが虐待という結果で奪われてしまっている事はある意味では異常であり、しかも生き残った場合でもそれが実の親によって行われたときに子供が抱えるトラウマは、第三者が計り知れるものでは恐らく無くなっているだろう。先進国である筈の日本で、現在のところ年間で約3万近くの子供達が、昔であれば孤児院送りの状態である疑いが強いという事実も、また一つの大きな社会問題である。
身体的暴力、性的暴力、ネグレクト、そして心理的虐待等。特に近年では女性の精神的弱体化もこれに拍車を掛け、専業主婦に憧れ男性の庇護の下に安住を望む保守的価値観の蔓延と女性個々の男性依存が顕著に出て来ている。金銭的、更には社会的な存在意義までも男性に依存する歪な男女関係に於いては、女性に対する権利を男性が牛耳るケースが多く見られ、家庭的問題等様々な問題の中で暴力と虐待が常態化してしまっている場合には、基本的にはそもそもの夫婦間の個々の人間関係の未成熟さの捌け口の一つに、それがそのまま子供へ対する態度等へ向けられてしまう事が考えられる。
そんな様々な境遇の中で、子供は親を亡くし、或は親から逃げ出し、あるいは捨てられて社会からは戸籍や住民票という人権的存在意義すら曖昧な状態におかけるような存在として生きて行かねばならない境遇の子供も少なく無い。または少年院あがり等と言う事例は枚挙に暇が無くこの日本には溢れている。
そんな彼らの受け皿の一つと成っているのが、古参の暴力団的な組織や裏組織的とする見方も有るだろう。最終的にそうした心の闇を抱えながらも基本は同じ人間である彼らに、人間的な親代わり、もしくは教育の場、社会に存在する意義を奴隷という形で与えてやっているという、持ちツもたれるの関係性が成立しているというのが、彼らの言い分だろう。しかし、そんな仁義を重んじる本業のヤクザは規制緩和によって陰が薄れ、今ではその他に何かを社会が差し伸べられるものが必要とされる。だが、そんなものがあるとすれば、それは何かと言えば、例えば一時的な支援であったり彼らを何か忘れさせてあげようと、1年で1日だけ孤児に無料開放する等して、遊園地に連れて行ってあげる等といった、見せかけの夢や企業のイメージアップ演出の一翼を担う様な事に体験させてあげる事ではないだろう。
日本には桃太郎という物語が、子供に聞かせる話として受け継がれている。腹ぺこの犬と猿とキジを吉備団子で空腹を満たしてあげる事と引き換えに、彼らは桃太郎の奴隷となって命懸けて鬼退治をさせられるヒットマンにさせられるのである。これは昔から仁侠団体等の裏組織の常套手段で、その歴史は今も脈々と受け継がれ、更には社会的にはその事が美談であるかの様に、裏組織を社会福祉の担い手の様に称賛する声まである。
人が社会に出て行き方にも人夫々千差万別有るだろうが、例えば非合法な出来事や物事そして物品は隣り合わせに存在する。友達を作れば作る程、何処かで必ず非合法な物事や組織等に加担している人とは巡り会うし、または自分自身もそれに加担してしまう人も少なくは無いだろう。
世間で見たり聞こえたりするニュースで、表面化する出来事は主に都心部が多いが、それは神戸や東京や名古屋、又は大阪と言った新聞社の記者が足で動ける範囲内と警察の記者クラブが置かれた範囲内というのと、他には、それでも氷山の一角でしかなく、一般の企業の中でさえ労災による過労死、もしくは製鉄場等で死亡してしまう労働者等の情報は一切部落の外には洩れない仕組みに社会的には成っている。
身の回りで行方不明や亡くなった等の出来事は意外に多いものだが、その一部抜粋が記事になり、世間の中で隣り合わせの生活を営んでいる人々にしてみれば、感覚としてはこの事は記事になったか、もしくはこの事は記事に成ってないか等は、日常の生活の中で肌で感じ易いものになっている。
そんな社会の中にあって、一時的にラリる快楽を与えるのではなく、自らの知識をゼロから蓄えられる場所が社会の中でどれほど重要かという事である。要は、図書館の存在をもっとオープンに、開放的にする事ではないだろうか?
読み書き能力の乏しい人々は臆する事無く図書館の中の国語の教材の箇所に行って、知識を蓄え、例えば図書館によっては新聞等の情報に触れられる機会もあったり、様々な文学小説に触れる機会等もある。ネットカフェ等で籠っているより、よっぽど将来的な知識的投資に結びつく様な物事を蓄積出来る筈である。
世の中で他人から教わる事の基本は、使い易くする為に教えるに過ぎず、過度に賢く自我で自発的に思考や考えを発展していく事は好ましく無いのが、実状だ。そういう意味で、実際にも機能しなかったが、ゆとり教育の神髄はそもそもが日本社会の理念と構造に合っていなかったのである。人が人に使われてしまう原因の一つには、主に全てに於いてまず無学さがある。組織が都合の良い人間に造り上げる為の洗脳講習や研修ではいつまで経っても、個人の学は身に付かない。
過去の富豪と言われた人々は様々な財団を設立しては、図書館の寄贈に全力を尽くした。社会が行わない福祉事業をギルデッドエイジの立役者であるまさに彼らが、その役割を還元し担ったのである。
図書館を無理にクリーンで綺麗でハイセンスでエレガントでオシャレにする必要は無い。金持ちは自分の金で本を買えるので、むしろ図書館は貧乏人の為の福祉施設である。いじめられた子供や、問題を抱えた児童が駆け込める様な場所でもあっても良いだろう。サフィスケイテッドな雰囲気の中で訳も分からずブランドネームに任せたままのコーヒーを飲んで、そこでの談議に華を咲かせたい人々は勝手にスタバにでも行けば良い。図書館の公共性は、政府が右を向けば右という低俗な公共放送に成り下がったNHKとは一線を画し、様々な人々が互いに支え合って情報を静かに共有し交換し、社会に対峙するような、そんな場所で有るべきではないだろうかと、思う今日このごろであった。