宮崎駿監督作品「風立ちぬ」の主題歌に使われたこの曲の由来は、飛び降りた自殺者の話が元ネタになっている。これが特攻隊を思わせるエンディングに被せて哀愁を引きずりエンドロールにいく所が、この映画の最大のカリカチュアライズエッセンスだろう。
さて、そんな劇中でも言われた『空を飛ぶ』と言う事は人類の永遠の夢の一つでもある。
だか、世界中の営利企業はそうした人間の夢という部分に付け込んで、彼らに奴隷労働させている。
パイロットと言えば、嘗ては弁護士や医者にならぶ花形職業であったが、今やその面影は何処にも無い。
彼らは空を飛ぶ事を文字通り、金ではなく夢の為に働いて稼いでいるが、その給料の実態はOL以下で奨学金の返済や、雑費の持ち出しプラス家族を養う事を考えた時に、通常のサラリーマンよりも不定期な生活環境なのにも関わらず特別手当ても無く、関係会社や他の会社に盥回しにされる。その扱いは野球選手のそれらよりも遥かに酷い。野球選手は結果や技術力で昇給するが、パイロットは腕に関わらずその扱いは悪い意味で平等である。
着陸の際に機体に衝撃を与える不快な操縦法をする予備役パイロットと、超弩級難易度の緊急着陸を行い、避難完了まで機内に留まった英雄が、全く同じ給与で働かされているのが世界でのパイロットの現状だ。
嘗ての特攻隊はある程度の操縦が出来、ただ離陸して飛べれば着陸技術は覚えなくて良かった為に若人の大量生産が可能だったが、着陸もせねばならず、乱気流の乱れ交う1万メートル上空で、乗客の命までも預けられる職業にかけられる重圧は計り知れない。そんな彼らの私生活は生活費の為に、クレジットカードの返済で火の車なのだ。
人の命を預けられる乗り物を操縦するバスや電車の運転手、船の船長や船員、そしてパイロット達がマネーゲームの株式市場に乗っ取られた投資家達により企業の採算性重視で動いている。そして、そんな彼らの乗る機械を生産する現場も、低賃金の悪環境の中で過重労働を強いられ、車はリコールの嵐で、電車は欠陥三昧な挙げ句、飛行機は機体トラブルが相次いでいる。
それでも事故を回避する為の安全策よりは、利便性を重視した方がコストパフォーマンスと採算性が良いと判断するのだ。賠償額も1000万円が頭打ちで、それ以下に切り詰めて行く事が訴訟の争点である今、格安航空券で飛行機に乗りまくる様な貧乏人には裁判費用等払える筈が無いというのが、企業側の見立なのだろう。
富裕層は安全性重視の高級車に乗り、移動は自家用ジェットや船舶で出かける。公共交通機関は負け犬の乗り物というのは、何も現代の格言ではない。
戦前ギルデッドエイジ時期のアメリカでうまれた言葉である。そして、今もその伝統は脈々と受け継がれているのである。
『夢』を持っている者達程使い易い奴隷は無い。彼らは皆、努力は必ず報われ、夢は叶うと信じて毎日の労働と仕事に邁進する。そんな人々の夢を上手にコントロールし、利益を出す事こそが、営利企業最大の腕の見せ所なのである。
夢を追い求める事は、『執着』であり、その癌を持っている者は絶対に這い上がれない。夢を諦めるという事は、執着を捨てて、大局的に物事を冷静に見れる力をつける事なのだ。
しかし、それはまるで宗教が個人の中に神がいるというかの如く、彼らの存在意義を無くす様な事なので、絶対に言わない。誰もが企業の傘下に入る事に意義を見出す様にし、学力と名声と地位に対して絶大な魅力を幼稚園の頃から植え付け、親はそうしたマインドコントロールによって、社会全体にぼんやりとしたしかし確実な学歴社会を形成する。
学歴というものは組織に入らなければ意味をなさない。
技術と知識があれば華僑やベンチャー企業等の様に、この世の中で奴隷として生きる事は無いのだ。しかし、人間は子供の頃に夢をみる。そして、その夢は時には組織の中でしか実現しないものであったりする。
現実世界の獏は、どうも悪い夢よりも良い夢の方が好物のようだ。
夢を喰われた人々は、この歌の歌詞に出て来る誰かのように、(そしてマレーシア航空の機長の様に…)この世に対して『不可解』という思いを抱きながら、現実ではない別の世界の空へと、旅立っていくのだろうか。。。