以前も書いたが共産党と検察との関係性には疑い目を向けなければ行けない。そもそも、スキャンダルに強い反面国家公務員I種試験と司法試験、霞ヶ関の一般官僚に比べて検察官の存在は別格だ。国家公務員上級職は戦前であれば官吏だ。その伝統と自負を今も受け継いでいるのが、検察の最高幹部である。戦前も戦後も結局は官僚にとって天皇程利用し易いものは無い。いくら右翼の馬鹿共が天皇崇拝をうたっても、肝心の官吏達にその意識は戦前戦後を通じて無かったのだからシャレに成らない。戦前内閣で人一倍天皇を敬っていた東条英機は官僚によりその全戦争責任を負わされ、天皇制維持の為の生贄として、絞首刑に処されている。何時の時代も忠義を尽くした男に、宦官はあまりにも可哀想な結末を用意する。刑によって亡くなった者の霊を靖国神社に弔うのは、通例では反する事で、大久保利通や西郷隆盛等の薩摩勢等をはじめ、国家反逆の汚名を着せられた者は今でも靖国神社には奉られていない。そんな中で官僚によって日本の敗戦の罪を一手に着せられた彼を靖国に奉るという事の意味は、戦犯の罪により天皇無罪を勝得た歴史のそれらとは、また切り離した方が良い事だろう。

 さて、話を戻す。そういった歴史の中で編み出した官僚にとり最も都合の良い天皇とは、現在の非権力で権威の象徴、そして実権は官僚が持つ事といった体制だ。日本国憲法では天皇を元首に置いて、高級官僚は天皇の臣下と位置付けられている。それが証拠に最高裁長官は最終的に天皇が任命する仕組みになっている。

 総理大臣も国会指名を経て天皇が任命するが、立法府の長官や衆参両院議長は天皇に任命されず天皇認証官でも無い。日本国憲法は官僚が天皇の権威だけを利用する戦前の仕組みとなんら実は変わっていない。官僚は基本、立法府を無視し、行政が法律が作る憲法の装置を司法と検察に組み込んでいる事を熟知している。弁護士や国語学者を兼任する様な連中が挙って霞ヶ関では連日連夜立法作業に当っているのだ。国語すらもろくに出来ない副総裁兼財務大臣等、手玉にとるのは朝飯前だ。官僚の手助けを借りなければ予算委員会でマトモに答弁も出来ない閣僚や質問する側の代議士も含めて、こんな者を態々国権の最高機関に祭り上げているのだから、有り難く思って欲しいとさえ思っているだろう。 

 そんな官僚の中でも別格なのが、実は意外と日本共産党と仲の良いのが、エリート中のエリート。入省時の試験や入省後の研修その他、給与体系も異なるもはや検察省と言っても過言では無い、この異色の存在である組織だ。検察官10人が認証官の司法と同格で、実の所法務省の実態は事実上検察省に近く、事務次官より法務省下一機能である検事総長の方が偉い。認証官でない事務次官経験者が検事総長になるのだから霞ヶ関のピラミッド組織図的には異常な実態だ。また判検交流により裁判官と検察は互いの職務を経験し合い、そんな特種な形体の上で、検察の権力には官僚も含めた日本国民がある種の恐怖を抱く事になる。

 厚労省官僚を無実の罪に陥れる事さえ出来る組織に於いて、最大の厄介事は人事である。これを時の内閣が人質に取り指揮権発動で検察と密約を結べるか否かが、時の政権の命運を別ける。小泉内閣や佐藤内閣が長期政権だったのは、小泉が毎年の靖国参拝による御加護やノーベル平和賞の薄っぺらい虚構の功績だけのお陰ではない。政敵を屠る事の出来る裏取引を検察としていたからである。実際問題裁判による勝敗はどうでも良いのであり、問題は時の政権が必要な期間彼らを逮捕し、世間に対するイメージを失墜させれる事が出来るか否かなのだ。つまり、逮捕された時点で彼らの役目は終りであり、容疑者になった瞬間からそのマル対人物の社会的な権威と権力は裁判の判決如何に関わらず終るのである。

 一般的に官僚にとって優秀な総理大臣とは、切れ者である必要は無く、官僚の説明を受けてそれを正しく理解する頭を持ち、またそのことを暫くの間記憶を保持出来る事さえ出来れば、逆に言えばそれだけで良いのだ。現在の総理はどうだろうか? 嘗て官房副長官時代に、官僚を扱き使って職権乱用し、東大法学部のエリート風を吹かし血の気が多く、逆上すれば官邸応接室のテーブルを蹴り上げる様な上司であった当時の福田康夫官房長官を静観する度胸も持つ彼は、官僚にとって心憎い迄に気の効いた所作と言動が出来、ある種の同じ官吏としてのエスタブリッシュメント同胞意識を共有出来るという意味では、非常に使い勝手の良い総理大臣であろう。

 憲法下では最高裁判事は内閣が任命するが、最高裁長官は行政が指名した上で天皇が任命する。高裁裁判長も同じく天皇認証官であるので、上級審では判決が反動的になりがちなのはその為だ。検事総長でさえも国会同意人事ではない。

 が、、、官僚共通の唯一の弱点が彼らは感情論を巧みにコントロール出来る話術と知性を持ちながら、理論で攻められると弱いという点である。そもそも論として共産党の組織図そのものが官僚機構のそれと良く似ている。元々既成左翼の過激派のお陰で警察庁公安は飯を食えた歴史があり、検察庁とも共々、実は警察が裏で暴力団とチャカの取引をする構図とも酷似しているのだ。左翼には特有の内ゲバという問題がある、制度や組織の有り様、内部抗争等で日夜揉め事には枚挙に暇が無い。実は官僚組織もそれと全く同じなのだ。中央委員会のシステムがそのまま霞ヶ関全体を覆っていると考えてもらいたい。そして、左翼の牙城であるが故に、その対抗勢力の存在は重宝される。例えば、警察にとって暴力団撲滅とうたっていても、本当に日本国内からヤクザが居なくなってしまったら、警察内部の一部の人間達がおまんまを食えなくなってしまうからである。

 本当に真の民主的で且つ日本共産党の理想を掲げるならば、憲法第一章を廃するべきだが、改憲の保守もここでは護憲と歩調をあわせる。第六章に関しては仲間を売る事は出来なく、当然の如く法務省・検察庁と歩調を共にする。すると、護憲を大々的にスローガンで掲げられるのは、安全保障に関する9条が一番都合が良いのである。

 安全保障を盾に日本国を海外に売りまくるという意味では、現在の安倍政権と共産党は対立しているどころか、全く同質の癒着関係にさえ見えて来てしまう。