以前にも少し述べた事だが、日本社会にもまだまだ韓国に負けず劣らず男尊女卑がある。いくら基本理念を示しても、民間と自治体に義務化されない事には、男女共同参画社会構造は砂上の楼閣と帰する。そんな中でも、成功する女性の一例として、古今東西2つのタイプがあげられる様に思われる。

 例えば、一つに能動的なタイプであり、もう一つは言うなれば受動的なタイプだろう。どういう事かと言えば、その人の運命、人生の上での試練、それらに対する姿勢だ。男女の関係というのは、一番身近にある社会契約である。そんな男女間系や夫婦の関係に関して言えば、アングロサクソンの理想とする夫婦間系は、実にその体質を良く表している。

 アメリカに於いて、夫婦関係をそのまま理想の国家像と国民の契約関係に準ずるそれであるべきだと言っているが、つまるところ、双方の平等性とは、これを共に認めつつも、それは一方の従属性をその関係性において常に正常な状態でなければいけないと言う事を謡っている。女性は女性として家庭と家族を守る上で担う義務を全うし、男性も労働の義務を負う。こうした双方に怠る事の許されない自然的な義務を怠った時においてのみ、家庭という国家に値する完璧にして完全な契約関係はその体をなす。

 これを怠ったものは、精神的において崩壊すると言う事らしい。男の勤労奉仕と女の家を守る責務。それら双方の義務を全うした理想像はシオン議定書本を自費出版し、その著書がアドルフ・ヒトラーにも影響を与えた、自動車王ヘンリー・フォードを始め、アメリカンドリームの成功者達の口から発せられた事は、その後の資本主義社会において、ある種の定義が生まれる要因になっている。その後、ジェンダー平等他その他の運動も広がったが、結局は明示的な一種の洗脳教育を経て、男性が強く逞しくあること、女性はやさしく男に付き従う事、男は家計を支え家庭での決定権を持ち、女は常にけなげに家庭を守る姿が理想とされてきた。

 出席番号順に名簿を読み上げる際にも男女混同では無く、男子から読み上げる等の教育指針がそういったステレオタイプとバイアスを暗黙のうちに植え付ける。フランスや韓国では議員に女性進出を促す為に、一定数以上の女性議員を選出するようにする政党法が存在するが、その実は道路交通法の制限速度ど同じく、その比率以上の女性進出を望ましくしないとする逆説的な規制法なのだ。フランス語では9人女性が居て、その中に男性が一人でもいると、呼ぶ代名詞の性を男性代名詞にしなければいけないという文法法があるように、実は平等を謡っているフランス社会はヨーロッパの中での男尊女卑のかくれた部分に社会背景がある。

 そんなアメリカから自由の女神を贈られたアメリカも同じく、アングロサクソンの中にある保守的な意見のそれらは、男女平等や性差別の意見がまだあるヨーロッパ社会に根強く生きている。女は家畜で言うところの牛に該当し、各夫達はその自分の家畜の牛の品評会を荷車の上に乗せて街を練り歩き、その順位を競った。これが現在のミスコンの起源である。

 近代19世紀の英国で、婦人参政権と女性の権利を求めて訴えた運動が盛んになり、婦人の挺身自殺が競馬の最中に起きたりした事等も、その当時はその女性を非難する世論のほうが圧倒的に強かった事等から、女性差別の問題は今なお世界的な大問題であり、特に中東においては未成年少女への虐待が深刻だ。そうした状況に照らし合せれば、今の日本社会はまだしもマシであるとは言えるが、男女雇用機会均等法が抽象的かつ象徴的なものでしかないザル法である事から、女性の気構えは21世紀もまだまだ強く持たなければいけない。

 肉体的に破れた女性は吐いて捨てる程いるこの世の中で、肉体を生業にした女性が迫害を訴えて賠償を求める暇があったら、肉体を投げだし勝利を手にするくらいの気概が欲しく、また男性社会の与えたそれらの環境に甘えていられるようでは、女性の社会進出等絵空事で終わるだろう。