一般的には社会にモラルを設けて、そこに下ネタ的な話題等を持ち込む事をタブー化し、規制をかける事が通常である。戦後影に追いやられたそうした業界だが、最近では再び陽の光の下に戻ってきつつあるようだ。西洋では日本の様に四畳半文化的な要素が無く、比較的開放的になっている為、法的な部分で線引きもされるが一方て高校教育で様々な性教育を生体の学術的なものとして押して、同時に中学からエイズに関する予備知識の育成と同時に安全な性行為を叩き込む。しかし、それでも性病が蔓延るのだ。ハーフや海外生れの人々の中でも、未青年期を海外で過ごした経験のある帰国子女が開放的な性格に見えてしまうのでは、本人が意識的にしているのでは無く、無意識に空気的にしている事もあるのだろう。

 さて、下ネタを売りにしてる女芸人と本番を売りにしてるAV女優の落差が近年激しいのを感じる。嘗ては裏社会だったAV業界からそのまま表社会の芸能人になってきているAV女優が多い。その壁の崩れ方はそのまま現実社会の壁の崩壊に繋がっている。末端の職業と言われて来た女芸人の職業と、裏社会の代表格とされたAV女優のその双方の地位がそれぞれ向上してきているが、容姿と本番を売りにしている分AV女優の方が回しが効く。その反面、社会的な地位が向上しても、下ネタで笑いをとる事を生業としている女芸人の生きざまは、結局の所それ以上は向上しない。その生きざまは今になってしまえば、AV女優よりも女としての上げ幅では、過酷な社会活動と言えなくもない。だが、所詮は芸人なので、その分際は弁えなければいけないところもあり、それは差別では無く、芸としての生業は芸人の生きざまそのものが芸であり、破天荒で不幸を背負いながら他人を笑わすそこに共感を得られるのが芸人の本筋なはずだからだ。

 ストリップ劇場や小屋営業等で活躍した身分から伸し上がるケースもあるだろうが、もはや今の時代にAV女優と芸能人のラインを引く事そのものがナンセンスになってきている。放送コードの倫理を守れば、AV女優がバラエティーや映画等に出て来てダメな事は勿論無い。一般的には性によって男を虜にするその姿には、杉本彩のように、その対象に対しては隠れた女性の憧れのような心も働く事だろう。そういう意味では、上手くすれば、グラドルよりもよりいっそう男女双方からの安定した支持率がある程度は保たれる事も出来る。だが、この場合も結局大事な事はその生きざまである。

 さて、女としての生き方は、これにはもちろん千差万別あるが、その一つには自らの才覚で自分の運命を切り開く者、観念的な何か(恋愛w?)によって肉体的精神的に崩壊して行くのに対して、肉体を投げ出す事で勝利していく様。その生き様は美しい以外の形容詞では語れない。だからこそ、花魁や芸者、舞妓は日本の美の象徴として世界に名が知られているし、日本の性の文化は江戸時代から西洋においても人気を博したのだろう。

 さて、現在において、全く過去を隠す必要も無く、AV女優がAVと同名でそのまま芸能活動を行えるようになった構造を構築した面では、つくづく故飯島愛の功績は、日本中のAV女優達が毎朝拝み末代迄語り継がれなければならない所がある。