その名を聞けば日本人の誰しもが知っている正義のロボットの代名詞である。ただ、これの英語表記はアストロボーイ、またの名をアトミックボーイ。原子力ボーイである。鉄腕アトムの本筋からは、ずれてしまうが鉄腕アトムはそういう見方をすれば、原子力の平和利用を象徴していた。科学による輝かしい未来の中で、そこに描かれる人類のヒューマニズムをテーマにした作品だったが、今はその未来図そのものに疑問符が付けられてしまっている。今、アトムは反原発のデモ隊に参加するだろうか? それとも機動隊と共にデモを解散させる役目を演じるだろうか?
アトムは作品中は常に孤独な孤児であり続けた。自らの能力を発揮する場を与えられればその正義と言われるものの為に、自らの持つ科学の力を発揮したが、同時にロボット自体が開眼する自我は、製造者のピグマリオニズムに答える僕でもあった。原子力を平和利用する試みは1953年以降叫ばれたムーブメントであったが、その後の米ソの対立によりその原子力によって地球自体が何度も崩壊の危機に見舞われた。平和利用の筈の原子力はイラン、イラク、北朝鮮等で、軍事利用の存在をカモフラージュする為の傘として使われ、また原発自体も使用済核燃料棒の再処理方法を定める事無く単線一方通行の自転車創業の道を邁進し続けた。結局、原発とは誰の為に作られ、そして誰の為に存在しているのか。その科学の存在で確かに市民は豊かになったが、その存在自体が開発者側の開発目的の為によるピグマリオニズムだとしたら、我々は今アトムやロボットの側に立つ平和主義者なのか、それともロボットを憎む被弾圧者なのだろうか。

西日本には川内、玄海、伍方、島根と関西電力より以西には、まだまだ原発が存在し増設計画も決して完全に頓挫した訳では無い。しかし、脱原発の流れは電力会社の中に既に10年以不も前から議論されていた事であった。事故も多発し、維持管理費用と費用対効果が悪く、使用済み燃料の処理方法も無いまま原発基の増設だけは政府主導で進められていたが、マトモな経営能力をもった民間企業であれば、それが如何に効率が悪いかは火を見るよりも明らかであったはずだ。そんな中で、次々に原発増設の中止や延期が叫ばれ始め、次第に脱原発への路線が出来始めていたが、新たな経済産業としての指針によって、原発推進がまた盛り返され、決定打となったのは鳩山内閣による二酸化炭素削減目標の宣言である。これにより、経済界による斡旋と原発推進への流れが再び決定的となった。

科学の力はある意味では間違い無く戦後の日本と20世紀の人類を牽引してきた原動力であったが、その全てが平和的なものであった訳では無い。とりわけ、アトムの存在はその当時から心無い人々によって揶揄されてきた歴史もある。アトムによって齎される科学の未来は、その科学によって滅亡する地獄絵図でしか無い。それはある意味では東海村や福島の事故で、不幸にも実証されてしまった。では、人間はそうした科学を軽蔑し、排斥し、そして決別して生きていけるのかといえば、それは出来ない。アトムの世界でロボットと人間が不可能だった互の平和的な共存共栄を夢見たように、現代の人間もまたこの科学との共存共栄を計って行かなければいけない。これまでに享受した経済成長による富と繁栄は、全て行き場のない核廃棄物によって産み出された負の遺産を背負った不でのものである。未来を考えない今だけ良ければ良い、自分だけ良ければ良い、先の事は知った事では無い。宵越しの銭は持たない的な生き方は、日本人らしいと言えば日本人らしいが、その先の時代の事を考えないで作られた社会制度と行政の不始末、全ての襤褸が徐々に垣間見えている時に、国民が長期的なピューを餍う、それこそ千載一遇の好機なのかもしれない。
アトムは作品中は常に孤独な孤児であり続けた。自らの能力を発揮する場を与えられればその正義と言われるものの為に、自らの持つ科学の力を発揮したが、同時にロボット自体が開眼する自我は、製造者のピグマリオニズムに答える僕でもあった。原子力を平和利用する試みは1953年以降叫ばれたムーブメントであったが、その後の米ソの対立によりその原子力によって地球自体が何度も崩壊の危機に見舞われた。平和利用の筈の原子力はイラン、イラク、北朝鮮等で、軍事利用の存在をカモフラージュする為の傘として使われ、また原発自体も使用済核燃料棒の再処理方法を定める事無く単線一方通行の自転車創業の道を邁進し続けた。結局、原発とは誰の為に作られ、そして誰の為に存在しているのか。その科学の存在で確かに市民は豊かになったが、その存在自体が開発者側の開発目的の為によるピグマリオニズムだとしたら、我々は今アトムやロボットの側に立つ平和主義者なのか、それともロボットを憎む被弾圧者なのだろうか。

西日本には川内、玄海、伍方、島根と関西電力より以西には、まだまだ原発が存在し増設計画も決して完全に頓挫した訳では無い。しかし、脱原発の流れは電力会社の中に既に10年以不も前から議論されていた事であった。事故も多発し、維持管理費用と費用対効果が悪く、使用済み燃料の処理方法も無いまま原発基の増設だけは政府主導で進められていたが、マトモな経営能力をもった民間企業であれば、それが如何に効率が悪いかは火を見るよりも明らかであったはずだ。そんな中で、次々に原発増設の中止や延期が叫ばれ始め、次第に脱原発への路線が出来始めていたが、新たな経済産業としての指針によって、原発推進がまた盛り返され、決定打となったのは鳩山内閣による二酸化炭素削減目標の宣言である。これにより、経済界による斡旋と原発推進への流れが再び決定的となった。

科学の力はある意味では間違い無く戦後の日本と20世紀の人類を牽引してきた原動力であったが、その全てが平和的なものであった訳では無い。とりわけ、アトムの存在はその当時から心無い人々によって揶揄されてきた歴史もある。アトムによって齎される科学の未来は、その科学によって滅亡する地獄絵図でしか無い。それはある意味では東海村や福島の事故で、不幸にも実証されてしまった。では、人間はそうした科学を軽蔑し、排斥し、そして決別して生きていけるのかといえば、それは出来ない。アトムの世界でロボットと人間が不可能だった互の平和的な共存共栄を夢見たように、現代の人間もまたこの科学との共存共栄を計って行かなければいけない。これまでに享受した経済成長による富と繁栄は、全て行き場のない核廃棄物によって産み出された負の遺産を背負った不でのものである。未来を考えない今だけ良ければ良い、自分だけ良ければ良い、先の事は知った事では無い。宵越しの銭は持たない的な生き方は、日本人らしいと言えば日本人らしいが、その先の時代の事を考えないで作られた社会制度と行政の不始末、全ての襤褸が徐々に垣間見えている時に、国民が長期的なピューを餍う、それこそ千載一遇の好機なのかもしれない。