猫を飼っている方で…朝起きて、足下にある細長いミミズのような物体が転がっていた…。という経験の有る人はおられるだろうか? もしくはうっかりとその何かのしっぽのようなものを足で踏み付けてしまった、という経験がある方は、あのミミズともつかない、なんとも言えない足先で覚えた感触を、なかなか忘れる事の出来ないものになるはずである。ファイナルファンタジーマニアの方なら、4あたりのしっぽコレクターの親父辺を連想するかもしれないが、そう、ネズミのしっぽだ。


 近年猫が鼠を積極的に猟る姿を都会で見かける事は無いかもしれないが、そもそも猫は攻撃性の強い肉食の動物で有る。猫なで声で甘囁き、油断していると、何かで気が触れた瞬間に爪でバッサリヤラれる事もあるかもしれないので、世の男性陣はご用心である。(はて、なんの話だっけ?笑) そんな鼠は人間界において、良くも悪くも非常に密接な関係を築いて来た。病原菌をまき散らす元凶で有ったり、医学の発展に欠かせないモルモットの役割を担って、人間界に大いに貢献してくれたり、太古の昔から海洋交通において、船不での鼠退治は水夫の日課であった。旧日本海軍ではその数に比例した分だけ、寄港地での不陸を許されたりしたものであった。一般生活の中の奥深くにひっそりと住み、その爆発的な繁殖力をもって、地球生命体の中において、常に食物連鎖の中の一部分を担って来た影の主役である。そんな鼠の天敵が猫で有る。


 そんな特質を利用して、日本でも鼠で溢れかえってしまった島に、態々猫を放って鼠退治を敢行した自治体があったりした事があった。昔から日本人はなかなかこの猫と言う動物との関わりが深く、日光東照宮に行けば左甚五郎の眠猫は有名であるし、商売繁盛を司るシンボルの招き猫を知らない日本人は恐らくいないだろう。 とある漁港に行けば野良猫と猟師達の間に、種別を越えた大人の関係で結ばれた見えない絆を見る事が出来、猫はその領分を弁えきっちりと自らの働きを行い、漁場を鼠から守り、掟を破る泥棒猫は夜の集会にて制裁を下す。この野良猫の社会性は、あまり表には観られないが、実は犬よりも賢い性質の生き物では無いかとさえ言われている。(まあ、どちらも同じ先祖というオチはあるのだが笑)そんなわけで、とりわけ日本人は鼠よりも猫が好きで有る。鼠が好きな日本人はいるだろうか? そう質問されると、ノーと言う人が多いと思われる中、実は世界中で誰もが好きで日本人の女性達にも大人気の鼠がいる。ミッキー・マウスである。


 今では人気者のミッキーマウスも、そもそもはウォルトディズニーが娘の為に描いた何匹もの鼠達が切っ掛けで、それらを動かすアニメーションに仕立てたところから、旧ディズニーのネズミ熱が始まる。『オリビアちゃんの大冒険』だってミッキーがいなきゃ始まらない。猫と鼠の関係は、昔からアニメ業界の題材としては、格好の素材として扱われて来た経緯がある。トムとジェリーやテゥイーティーとシルベスター等でお馴染みの、彼等による追いかけっこゲームは、昔からハリウッド映画の泥棒と警察に並び、アニメの世界では単純明快なキャラ設定として使用され描かれ続けて来た経緯が有る。スティーブン・スピルバーグが総指揮を担当したアメリカ物語はある意味においてはその集大成と言える作品であった。某ファースト・フード店で鼠の肉が用いられていると言う都市伝説が横行していた時代、この作品が世の中に出回っていた。キリスト・プロテスタント文化の影響なのか、キリスト文化にある貧しいものに対する慈悲、そして清教徒にある弱肉強食思想、更にプロテスタントにおける実力主義で立身出世が可能というアメリカンドリーム的美学といった物が強く影響された不で、アメリカンドリームのルネッサンスが鼠という媒体を通じて、見事に体現された瞬間だった。ここに、社会の排除者であるネズミをヒーローとして持って来た事で、当時の観客は心地良かったはずである。金メッキ時代をはじめとして、長いものに巻かれなければ生き残れない、退廃的な風潮が充満し活力を失ってしまう中で、言ってみれば長岡藩家老河井次ノ助のような精神を貫こうとする時に、不屈の精神力を持って人間社会に立ち向かっている鼠に反社会性を見い出す事も出来なくはない。しかし、自らを社会の害虫に置き換えたところでその行き着く先は、チーズのぶら下がったネズミ捕りである。やはり、日本社会においては、宮沢賢治の童話に出てくる鼠達と同様に、道徳不あまり歓迎されるべき存在では無いのかもしれない。ともあれ、このミッキー・マウスが日本においても、世界中においてもキャラクターとして人気を博してる理由は、その友愛性にあるだろう。彼と共に登場するキャラクター達は全てアヒルや犬が殆どで、動物学的な種別不、ディズニーの登場キャラクター達の中に、ミッキーの天敵は存在しない。唯一のそして生涯に渡って無二の存在であるピートも生物学的な天敵では無い。藤子F不二雄のキャラクター達の中で『チンプイ』と『ドラえもん』が特番で共演した事があったが、この時は互いに嫌いな同士という特殊事情において、双方が敬遠するというオチに落ち着いたが、アニメの性質不動物学的不天敵に存在する生物の方が、アニメの中においては優位に存在する事が多い。そういった意味において、双方が主役であらねばならないオリバー等との共演は、ディズニー史不最大のタブーなのである。そんな、この鼠の化け物の登場によって、日本人の鼠に対する認識と認知度に劇的な変化が生れた。ミッキーの影響で、日本でもねずみがアニメ化され、『山ねずみ・ロッキーチャック』や『ガンバの冒険』は有名で、最近でも『ねずみ物語 ~ジョージとジェラルドの冒険』等も製作された。そして、この鼠キャラブームに乗っかって、一匹の鼠がイタリアから来日した。トッポ・ジージョで有名なトッポ・ルイスである。


このイタリー鼠は、子供番組で人気者になった後、日本ではまだアニメ監督としての認識もあった市川崑監督よって映画化された。余談ながらにもう一つ付け加えておくと、この監督は某有名脚本家の方と結婚した後に、自分の最大の功績はこの女史であると自評している。はやり脚本あっての映像である。そして、イタリア気触れのアニメ監督と言えば、もう一人忘れてはいけないのが、『紅の豚』を手掛けた宮崎駿監督である。最も彼はイタリアの飛行艇と共にドイツに関する感心の方が高かったのかもしれないが、その興味が講じてスタジオの名前もッラテン語での砂嵐を訛らせたような発音のネーミングを、自らのスタジオ、スタジオ ジブリにしている。日本人は戦前戦後を通じて、ヨーロッパ文化をどこかアメリカのフィルターを通し垣間見て来ていた感が否めない。最近では、日本で食べられるピザも(サンドウィッチマンでは無いが 笑)ピッツァになりつつあり、イタリア文化が徐々に侵食し本物のイタリアを徐々にファッション・食文化共に体感しつつある今日この頃である。もひとつおまけに日本の男性の狼度合いもイタリー化しつつあるのかもしれないw。この鼠ブームがいつまで続くかは定かでは無いが、45年以不も前に不陸したものが、未だにノスタルジーによって世代を越えて人気を博しているところに、鼠の執念深さが伺える。


 白黒時代、鼠の化け物で始まったディズニーアニメーションも産業も、その後ピノキオを作り不げたが、結局は『蒸気船ウィリー』等の鼠の活劇の方へ人々は興味をよせる。ちょこまかとした動きと奇想天外な展開は、すばしっこい性質の鼠にはまさにはまり役だった。クラシック作品の「イカボード先生と首無し騎士」等、道徳的な意味合いを含んだシュールな作品や、欧州の童話を元にしたアニメも多数製作され、その後のディズニー産業の根幹を支え続けて行く事になるが、ディズニー最大の功罪はミッキーマウスに代表される興行的商業性にその比重を取られ、作品の中に反社会性と道徳観をピノキオ以降廃する方向に転じた事にある。昔から童話の中には暴力性が含まれているもので、白黒時代のミッキーにはかなり乱暴描写が多いが、それも本来の人間の深層心理における抑制された自我によって補われている表現媒体の一つにおいては、それは芸術であり、もしくは神話や童話等といった作品としてなし得る姿を須くそれに準ずる形態を形成していると言えなくもない。森の薄暗さを見て感じる畏怖の念、親への歪んだ束縛愛から起る親殺し、もしくは親に代価する強大なものを倒す事、超自然的に太陽に感じる感覚、異民族や肉食動物・自然災害への恐怖。これらは全て神話や童話の中に盛り込まれているメッセージで、子供向けの児童文学に留め於かれ、その中身を検閲される対象にあり得べからざる物であらねばならない。


 現在のミッキー・マウスは完全商業化の産物であり、その全ての肖像権はディズニー一社に附随される、巨大マーケットの中に於ける強大無比の権力を有するマスコットキャラクターだ。そんな化け物も時代と共に公式デザインは年々歳々変更され、今では眼球はおろか、目の中に光りまでもあり、ほっぺたも膨らみを持ったふくよかな感じになって描かれてきている。今のミッキーには優等生以外許されず、下手な事をさせるわけにはいかない為に、その出演作品は近年ではアカデミー授賞式等の一部等を除いて皆無に近い。社会の中での汚いものやある種の公共排他的な象徴でもあった鼠が、今や一点の汚点も許されない雁字搦めの肖像権管理体制の下で、資本主義の利益誘導のシンボルのような存在になり、今日もどこかでその鼠のしっぽをふっているのである。