
いつの時代も何処の国でも、最終的に利益を被り、一番の旨味をもたらす者に全てが味方し、物事は運んで行くものである。公務員倫理法以前の官製談合や官財民間で常態化していた接待を、言い換えればその関係性が稟議方式と言われる役所の鈍速行政を動かし、日本に高度経済成長を齎した一つの民間の知恵と言えなくも無いが、事話が人命に関わる事になると、流石に話は深刻に成らざるを得ないと、心中穏やかでは無い自責の念にかられる官僚や民間人も少なくは無いだろう。具体的に言えば、総務省や経産省の人々である。訳の分らない原子力の監督業務にいきなり異動してきても、専攻出でも難易なこれを、大学一般出での付け焼き刃知識のみでこれを任されてた当時の通産省も可哀想といえば、可哀想である。専門家である東電に虚栄心を弄ばれて、良いように手込めにされてしまったのも、充分に情状酌量の余地はあるが、主文は後回しである。ヒトラーの命令によって、シュペイヤー軍需相の指示に従って強制労働の為の労働者を掻集めた担当者が死刑になった事例にならえば、杜撰な行政によって人災を引き起こした罪は流石に万死に値する。だが、今の日本人はとても優しく従順である。大震災による原発大災害以来、己の涙を流しながら黙々として政府の統制に耐え、時には自らの命を絶つ者を真近で見つめながらも、常に服従し続けるのは何故か? それは、いつかは政府が適当に解決してくれるであろう。この心の奥底では、そう信じているが為の輝かしい真の国民性が所以である。暴力の暴力による暴力の為の運動をせず、時には自らの身を呈して御上に上申をする、そんな健気な生き様をするのが、日本人の庶民の姿なのだ。

現在、首相官邸等様々な場所でもデモが繰り広げられている。目的がなんであれ、日本人はまずお祭りが大好きな国民性だ。何かめでたい事が起これば、事の主旨も理解せずにとりあえず騒ぎ楽しむという、世界中が「笑う顔」を日本人のシンボルマークに掲げる程、その笑顔の奥底にある暗い現実をひた隠しに心の奥底にしまい込む奥ゆかしさ。長屋文化とも言われる程、互の結びつきを重んじ、一期一会で互いに助け合う姿が、日本人の本来あり得るべき姿なのだ。だからこそ、『振り込め詐欺』が横行し、『バッタ物商品』が出回り、『行政腐敗』が横行するのである。日本人は明るく笑い、暗く辛い顔を表に出さない。それが生き様であり、粋なのだ。人が亡くなった時も日本人は昔から、皆で天寿の全うを祝った。故黒澤明監督の「夢」の中に登場する水車小屋村では、原発被爆で崩壊した後に、自然エネルギーにより昔の営みを取り戻した生活を営む人々が登場する。そこでは亡くなった人を村びと全員で踊って楽しく笑っておくだす習慣があった。それは死に向き合っていないのでは無く、多神教文化の中で霊や魂といったものを常に身近に感じているからこそ、先祖の霊が帰って来る盆の季節に霊を迎え、おくる踊り、盆踊りという風習が日本には全国各地にあるのだ。日本人がお隣朝鮮半島の文化ように、泣き屋を入れる程に迄悲しみを全面に見せるのはいつの時代になってからなのかはよく分らないが、人災によって奪われた命が天寿を全うしていない事だけは確かなのかもしれない。

そうしたお祭り好きで何かに発散場所を求めて彷徨うエネルギーは、ネットという媒体を通じで遠心力化し、近年三次元世界に放出されている。日本では、悪代官や悪徳商人というのは、水戸黄門でもお馴染みの時代劇には欠かせない要素だが、これは現在進行形で尚も続いているこの国の有り様なのだ。明治以来、日本国は官僚で成り立ち動いていて、代議士はそんな官僚への口利きを行い、国政に庶民の声を届け代弁してくれる役割を担ってくれる事から、選挙区では『先生』と慕われているのが日本の政治のありようだ。これは現在の欧米では考えられない姿に他成らない。官僚はいつの時代もその責任を政治家に転化し、自らのパージを逃れて来た経緯がある。東条英機を全面的に庇う訳では無いが、明らかに彼もまたそうした犠牲者の一人と言えなくも無いだろう。戦後に戦犯を逃れた真の戦犯者達は、最高裁長官や代議士という身分に天下りを果たし、その後の日本の舵を引続きとっていったのである。

天災はこれまで何度と無く日本本土を直撃したが、どんなに悲惨な状況に見舞われても、それが天災であれば、責任の取り方も千差万別生まれて来る。しかし、原発は夏休みのアサガオ研究のように、土からニョキニョキとセイタカアワダチソウの様に生えて来る物では無い、人間が造った物による事故で起こった明らかな人災なのだ。東電に対する賠償金や保障、被害に対する援助等で荒げた声は計画停電という天安門で一気に掻き消されて沈静化してしまった。そして今、その怒りの鉾先は、特に強行採決もする事も無く、与野党3党合意を結んだ上で増税法案を通した政府に向けられている。思い返せば、この国は見事に歴史の流れを、形を代えながらもくり返し巡っているのかも知れない。政官財癒着の馴れ合い体質から産まれた事変から、現場無視による国政の舵取り、やり場のない現実への不満が末端の労働者や地方公務員から沸き上がり、その行き場のない怒りがある形を成して暴発したとしたら、この国はもう一度事変から戦後への道を、別の形で歩みなおす事になるのかも知れない。
