【戦争を開始する勇気よりも、戦端の火蓋を切らない勇気を持とう】
 
 臆病者、弱虫、腰抜け、死ぬのが恐いから逃げる意気地なし。攻撃を躊躇う者へ過去に幾度と無く言われ続けて来た決まり文句だ。軍事的に言えば、国内だけでも、鳥羽伏見の戦い、戍辰戦争、西南戦争、太平洋戦争等、挑発に負けて戦を仕掛けた側に既に勝機が無い例は枚挙に暇が無い。ベトナム戦争でもアメリカは敗北を喫している。キューバに於いて、核の抑止力から紙一重で戦端を開かなかったケネディ/フルシチョフ両首脳は、自らが戦端を開く事をどれほど危惧していたかしれない。当時、若輩のケネディに統合参謀本部からの圧力も限界に来ていた矢先、フルシチョフからの電報によって、事態は和平へ舵を切った。国を憂い国を動かすところの政治家は、ここに肝を据えておかなければいけない。


【騙すほうより、騙される側が悪い】

 あまり好きな表現ではないが、一般的に理解しやすいだろうと思い『悪い』という表記を用いた。武田鉄矢の歌では無いが、人間は、現世においては騙されて死んでいく魂でも、その後の魂と生きざまは必ず騙した方よりも格段に不のものになっていくに違いない。だが、それはそれとして、この世の中において何かをなし得るには、まず騙されない事が何よりも第一であり、結果的には勝てば官軍、勝者の戦犯なのである。特に、官僚社会主義的性質の濃い日本のような国家にあっては、騙される事にこそ比があって、騙した側が馬鹿を見るのが世の中である。ドラえもんがのび太に「正直者がバカをみる世の中」と言っているが、悲しいかなまさにその通りなのである。


【観察することを怠らない様に生きていこう】

 何ごとも良く観察し、軽はずみな行動を自粛するように生きていく様に心掛けよう。人間は観察する事を生涯の課題として太古の昔から生きて来た。この世の中で起きる全ての物事、出来事、そしてそれらを刻む歴史が人類の生きて来た証そのものなのだ。身の回りに溢れる小さな魂から大きな魂、無機物から有機物に至るまでの生きとし生ける全てのものに、人間は観察を怠ってはならない。そもそも、なぜ日本人はこうも自然観察に対する意識が強いのか? 日本と言う国土の持つその超自然的な地理的条件下において、昔から日本人は自然というものに対する意識を恐らく世界中のどの民族よりも敏感に感じ取っていたに違いない。精霍を祭り、その霍を崇める祭りを行う風習は世界中にあるが、今でもそうした霍媒師や祈祷師と言った特殊な能力を持った人々が、日本各地に先天的な能力として持ち合わせている事が多い。日本の伝統芸能の一つである能の世界には、幽霍や神、そして自然界の精霍が登場する。こうした霍界の存在は決して絵空事では無く、真剣に思われていた証なのだ。故黒澤明監督の描く映画の多くに、『乱』や『夢』等には、そうした能の手法が取り入れられ、日本人がこのように生死と向き合う境目の異世界を描いた宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』、そして近年話題になった『おくりびと』海外で評価を受ける日本の作品と芸術性は、そうした精神世界の表現にある種の特異性を感じるからに他ならない。近年、感性と価値観が近視眼的になり、物質欲への探求のみが先行し、精神的な清廉が日本の文化には全く欠けて来ている。美術の世界においても、何かを描く第一歩は鉛筆で描きはじめ事では無く、どれだけ長く対象物を観続けて、目と心の中に焼きつけて、自分なりの表現をそこに描ききれるかにかかっている。何も印象派の話をしているわけでは無く、書道においても、一瞬で決まる芸術であれ、それはその人の中に観察・蓄積されたものがあって初めて表現されるものであるはずだ。さて…今日は七夕である。古代バビロニア人が起した恒星観察によってその配置をファンタジックに表した星座もまた、人間の生み出した最高の文化遺産と言えよう。これ以降人間は空に興味を持ち、夜に星を眺め、それらを観察しはじめた。この話は長くなりそうなので、後日また書く事にしよう・・・。(笑)