民統制の観点から、戦前の教訓から軍人が政治に携わってはいけない。もしくは、軍人の統制は文民が行う。これがシビリアンコントロールの基本原理だ。現在、この『軍人』という定義の観念が現行の憲法下では曖昧になっていて、別の言い方をすれば、定義無くなし崩し的にこうした概念が壊れて行っている。自衛隊を事実上の軍隊と見なし、自衛官を軍人と見る解釈は過激な右翼思想の人々を始め、今ではなかなかの多くの人々に、これらが浸透して来ている様にも感じるが、そもそも論として軍隊とは、基本的に交戦権を保持しないそれは言わば有事に於いては機動隊以下の活躍しか出来ず、それでは何の為にあるのかと言えば、外敵から攻められた際に自然界に於ける自衛権の発動に際して、持ち得る力でこれを防衛するという事において、その活動は初めて正当される自衛の防衛であり、抵抗された際に警察が他者を発砲する権利を有するそれと良く似ている。外敵から攻められているという原理原則が不成立の場合には、他者への攻撃が自衛に当たるか否かは、報復攻撃による外敵地への攻撃も、それに該当するかは恐らくこれを可としないと思われる。現行の憲法では第二章第九条の戦争の放棄の中で、武力による威嚇と行使は国際紛を解決する手段としては永久にこれを放棄するとある。つまり、逆説的に言えば自衛権における戦争行為が発生した場合には、自衛隊においては武力の行使のこれを認められるという解釈が成立するのである…。全く逆の発想をするならば、自衛隊が武力行使が可能になるパンドラの箱は何処にあるのだろうか? それは極端な話をすれば、自衛隊が敵により攻撃を受けた瞬間から、歯止めが解き放たれる。具体的に言えば、尖閣諸島及びそれらの地域で、駐屯する自衛隊に対してなんらかの外敵により、フォークランド紛争のように海兵隊数十人が死傷する等の事態が起こった場合である。


自衛隊は軍隊であって、軍隊で無い。戦前の軍隊の様に、天皇直属の官僚公務員から建前上の国民の公僕としての公務員に位置付けられてはいるが、その実は紙一重で如何様にも暴走出来る素質を兼ね備えている。現在の警察予備隊から派生した自衛隊創設の経緯には諸説あるが、とりあえずこれを軍隊と呼称し自衛官を軍人と呼ぶのか否かについては、現在のところ客観的に見ても無理があるであろう。とすれば、軍人を統括するのが文民である事をシビリアンコントロールとするのであるのであるから、現在の自衛隊の立場からすれば、装備の重装備度のみをもってして、これを軍隊と呼称し自衛隊員公務員を軍人と扱うのには、妥当では無く、よって法務や国交と同列には列せず、武器の所有を認められている部署に於いてのみシビリアンコンロールを論じるのは、ここは千差万別あるだろうが、個人的意見を交えたにしても、やはりそこには無理があるように思えてならない。海上保安庁や警察のトップに民間出身の大臣が任命されても、慣例や前例を破ったに過ぎない。なぜ、保持する武器指揮系統組織のそれを見た時に、海外の一般的な常識からすれば、それは確かに軍隊であるにもかかわらず、そして軍人であるのは明らかという議論もある中で、これを自衛軍とし今後どのように扱いコントロールして行くのかという事があまり論じられなくなっているのだろうか。最大の問題は自衛隊が所持するその武装にある。軍隊であれば製造に関するパンドラの箱は開けられる事になり、三菱をはじめとする各社の国産の武器生産が可能となる規制緩和が起こり、武器輸出も解禁され、紛争地域にメイド・イン・ジャパンの地雷と砲弾が飛び交い民間人の命を直接的に日本の民間企業が奪う事になる。次いで義足や医療関連器具輸出。それだけでも特需が訪れる事になる。その場合、はたして一番困るのはどこなのか? 言わずもがな、自衛隊・防衛省のお得意取引先であろう。


軍隊は必然的に交戦権を有さなければ、存在意義が無い。戦前の軍隊は天皇の為の軍隊であり、それは行動に際し内閣や国会の承認を必要としない組織であった。自衛隊が自衛軍になった曉に、出動もしくは派遣される際、防衛大臣及び総理大臣の判断のみで交戦権を得、国会は事後承認で良いと言う事になれば、自衛隊は内閣に属する事になる。倫理的にどうであれ、事実上国会に内閣による自衛軍の暴発を防ぐ手立ては無い。交戦権を与えられた派遣軍が派遣先で帰還命令を受けないままに、暴発したのは、戦前の苦い経験として生かされなければならないハズだ。日本本土を有する上での国土防衛上での交戦権のそれと、海外派遣に際しての交戦権の有無とは、全く異なるものになる。その歯止めを緩めてまで日本国内に軍隊を保有する意味があるのか否かと言えば、答えはノーだろう。海外派遣及びPKO等の活動はいまや米軍でさえ現地には民間の武装警備会社が派遣されている。日本本土以外の場所を護衛警護するに際して、交戦権がそれほど必要不可欠なものであるという意味が良くわからない。敵視必殺の精神を海外、及び海上に於いて当てはめた場合、日本の防衛省と外務省が事後処理と事務能力に於いても、それほど強力な外交能力と諜報調査活動能力を持ち合わせているとは思えないからだ。万一の事があった場合、国際関係における日本の価値と信用度は雪印の牛乳のメーカーイメージよりも早く失速し、世界中からの避難の嵐を食らう事になる。ここが、交戦権を有する軍隊と、そうでないところの大きな違いだ。領海内で起った自衛権による交戦行為と、それ以外で行われるそれを同一視して捕らえる程近視眼的な国際史観は無いだろう。


現在防衛省には民間出身のトップを頂いている。問題点とされるのは、元自衛官(軍人)が民間出身であれば、制服組が背広組を統括する事に繋がるという意味での危機管理意識、そして防衛省官僚の危機感と妬みも若干入っている事だろう。現役自衛官が政治に意見をする事は、米国では厳罰に処され、軍法会議にかけられる。日本ではノウノウとメディア露出も可能だ。そういう意味では、現時点においても、実は全くシビリアン・コントロールはとれていないのかもれない・・・。