子供に見せてはいけないという書物が近年増えているらしい。昔ばなしを読ませて聞かせろとか、もっとおとぎ話を子供に聞かせて情操教育をと馬鹿な大人は叫んで止まない。よかろう、その子供向け本の話をしてやろうではないかw。
子供に行かせる夢のある場所といえば、いの一番に言われるのが、かの有名な東武の土建屋が築きあげた浦安のディズニーランドである。シンボルにあるのは「シンデレラ」からとっらお城だが、ディズニーというのは、彼らの手にかかったが最後、原作の話等は全てスペインの異端審問官によるスキンピューラーにて脱穀されたのように、マイルドな仕上がりになってしまうのだw。原作はかの有名なグリム童話の名作「はいまみれ」である。先のロイヤルウェディングのように、シンデレラが結婚式に来る途中、彼女の姉さん達は鳩に目玉をほじくられている。ここまでなら自然界による道徳で片付けられるし、事実ここまでなら読んだことのある人もいるだろう。問題はこの後の後日談である。妃になった白雪姫が王子と共に、王妃に熱く灼熱した鉄の靴をはかせ、踊り殺して復讐する話が出て来る。完璧にそうなると人間の社会の想念の問題であり、もはやメルヘンでもなんでもないw。それは海外の話であると言われるだろうが、とんでもないw、日本の方がもっと残酷である。カチカチ山は、狸の生皮を剥いで行く等の生々しい記述が本来書かれている。こういうものを除外する事こそ、ある意味では部落差別に繋がる根源になると共に、スーパーでいくらを見ても、それが魚から生まれて来る加工品である事を知らない人間が育つだけなのだ。つまり、童話等というものは、決して子供向けにかかれたファンタジックなだけではなかったわけだ。世界中に類型化されたこうした考え方は、森の薄暗さを見て感じる畏怖の念、又は父親や母親を独占したいと思う事から来る親殺し、親に代わる強大なものを倒す話、太陽を見て感じる感覚、異民族や肉食動物・自然災害への恐怖、海闊を見て海の底への探究心等と共に、子供へ向けてと言うよりも、ある意味での道徳性であろう。深層心理のリトマス試験紙という考え方もある。古くからの習慣などが寓話化され、実際にあった奇談が元になり、長老の道徳性を伝承し、話し聞かすために考えられたもの。それを歪めてしまったら最後、昔話はなんの価値も無いただのそこら中に転がる広告媒体と同質の価値しか無くなってしまうのであるw。
子供に行かせる夢のある場所といえば、いの一番に言われるのが、かの有名な東武の土建屋が築きあげた浦安のディズニーランドである。シンボルにあるのは「シンデレラ」からとっらお城だが、ディズニーというのは、彼らの手にかかったが最後、原作の話等は全てスペインの異端審問官によるスキンピューラーにて脱穀されたのように、マイルドな仕上がりになってしまうのだw。原作はかの有名なグリム童話の名作「はいまみれ」である。先のロイヤルウェディングのように、シンデレラが結婚式に来る途中、彼女の姉さん達は鳩に目玉をほじくられている。ここまでなら自然界による道徳で片付けられるし、事実ここまでなら読んだことのある人もいるだろう。問題はこの後の後日談である。妃になった白雪姫が王子と共に、王妃に熱く灼熱した鉄の靴をはかせ、踊り殺して復讐する話が出て来る。完璧にそうなると人間の社会の想念の問題であり、もはやメルヘンでもなんでもないw。それは海外の話であると言われるだろうが、とんでもないw、日本の方がもっと残酷である。カチカチ山は、狸の生皮を剥いで行く等の生々しい記述が本来書かれている。こういうものを除外する事こそ、ある意味では部落差別に繋がる根源になると共に、スーパーでいくらを見ても、それが魚から生まれて来る加工品である事を知らない人間が育つだけなのだ。つまり、童話等というものは、決して子供向けにかかれたファンタジックなだけではなかったわけだ。世界中に類型化されたこうした考え方は、森の薄暗さを見て感じる畏怖の念、又は父親や母親を独占したいと思う事から来る親殺し、親に代わる強大なものを倒す話、太陽を見て感じる感覚、異民族や肉食動物・自然災害への恐怖、海闊を見て海の底への探究心等と共に、子供へ向けてと言うよりも、ある意味での道徳性であろう。深層心理のリトマス試験紙という考え方もある。古くからの習慣などが寓話化され、実際にあった奇談が元になり、長老の道徳性を伝承し、話し聞かすために考えられたもの。それを歪めてしまったら最後、昔話はなんの価値も無いただのそこら中に転がる広告媒体と同質の価値しか無くなってしまうのであるw。