「いってきます」
「いってらしゃい。気をつけて」
 今日も母親に見送られて、いつものように出勤しようと家を出た。
 足が、鉛のように重かった。一歩一歩の歩みが異様に遅い。
 熱でもあるのか。いや、そんなことはない。そんなことは、じゅうぶん過ぎるほどわかっていた。真夏の、35度越えは当たり前のこの猛暑日が続く最中に、よほどのことがない限り、熱など出やしないのだ。
 わたしはそれでも、必死で電車に飛び乗った。満員電車に揺られ。頭がグラついているのか、それとも体がグラついているのか、はたまた心がぶれぶれで、芯がグラついているのか。到底、わかりもしなかった。
“もう、どっちだっていい”
 心の中で、力なく吐いた。誰にも届きはしない言葉を・・・
 吊り革にしがみつくわたしの腕は、この暑さだというのに、長袖シャツで、手首までキッチリと覆われている。
“この暑いのに、なんで見てるだけで暑苦しい長袖なんて着てんだよ”
という、周囲からの無言の圧力に、屈しもせずに。
 お洒落のため?まさか。服装などに無頓着なわたしが、クソ暑いのを我慢してまで、長袖なんて着るわけもあるまい。
 ノースリーブから、か細くて、白く美しい腕を、これみよがしに出した、同じ年頃の女性が憎らしかった。
 わたしの腕が、太く、黒く、見苦しいというわけでは決してない。じゃあ、ナゼかって?それはわたしの腕に、カッターによって切り刻まれた無数のキリ傷を、隠すためなのだ。腕だけではない。それは太腿にも、しかと心の叫びが、刻まれている。
 車内は、クーラーが最大に効いているにもかかわらず、熱気でムンムンしていた。かすかに、汗の臭いが漂った。
 目的の駅に到着すると、大勢の下車する客達に押され、よろよろと車外へ放り出された。
 会社に向かって歩いた。つもりだった。しかし今日のこのわたしは、いつの間にやら、どんどん会社から逸れて歩いていた。
 もう、会社になど行きたくなかった。限界だった。くやしくて、苦しくて、毎晩眠れなかった。処方された睡眠薬は、飲み過ぎて効かなくなっていた。
 いつしか生理も止まった。女でなくなった気がした。こうしてわたしは、女でもなくなり、挙げ句の果ては、人間でもなくなる日が来るのだろうと思った。
 朝だというのにすでに照り返しで、ギラギラしている見知らぬ路地を、何十分歩いただろうか。一体どこまで歩けば、わたしは救われるのだろうかーーーー。