(*´∇`)ノ    Yu-ju    &

るっちゃん です ♡ ฅ^._.^ฅ 


今日も奇跡のコースの学びと

ホーリースピリットからの

メッセージ&オラクルカードを

お届けします♡


今日もご覧いただき

ありがとうございます🩷


この情報を必要とされるかたへ

届けられることを意図しております

サムネイル




今日のオラクルカード

私たち集合意識全体が今

受け取る必要があるメッセージを意図して

カードを引いています



周りの人に

有意義な体験をする

自由を与えれば

自分にとって

有意義なことを創造する

スペースが生まれる


《ホーリーからのメッセージ》

あなたたちはついつい、周りの人が

自分の思うようになってくれれば良いのに…と

そう思考する癖があるように見えます。

あなたの目に映る人々は

あなたの心を映しているに過ぎません。

それをジャッジし思い通りにしたいと力むのではなく

人々の自由を認めてあげてください。

そうすることで、あなたの心も自由になるのです。

自由になれば心は拡大していきます。

彼らを赦すことで、あなたが自分自身にかけた

心の呪縛を解くことができるのです。

彼らはあなたなのですから。



今日のカードは、なかなかなカードですね。

周りを自由にさせない=自分を自由にしない

と言うことを腑に落とすには時間がかかるかもしれません。

津留晃一さんのお話の中に『無礼講』と言うのがあります。『今日は無礼講じゃ! 皆のもの、勝手にするが良い!』これでイライラがなくなってしまうそうです。

自分が被害者になることがなくなるからです。

『これからは、すべて無礼講じゃ!すべてを私が赦す!皆のもの勝手にするが良い!すべて私が責任をとろう!』と、自分の心の責任を取るひとり1宇宙なので、周りのすべては鏡であり、自分の創造であると、キッパリと認めることをするのだそうです。

このお話は『害をもたらすもの』と言う題名の中に出てきます。

津留晃一さんは既に体を手放されたかたですが、

お話はYouTubeなどで聞くことができます😊



奇跡のコースについて

『奇跡のコース』(ACIM ・A course in miracles)は40年以上にわたり、悩みや問題にとらわれずに真の自分の人生を生きるための心のトレーニングとして、宗教や文化を超え、世界27か国以上に翻訳され、学ばれています。

エックハルト・トール、ディーパック・チョプラ、ジェラルド・ジャンポルスキー、ニール・ドナルド・ウォルシュ、など名だたるスピリチュアルリーダーたちが引用しそれを伝えています。

このコースは、かつて無神論者であったニューヨーク、コロンビア大学臨床心理学教授ヘレン・シャックマンが「イエス・キリストの声」を聞き取り、7年にわたりまとめ上げたものです。

奇跡のコースは自習書であり、テキストとワークブックを通じて奇跡の思考体系を理解し、具体的に毎日その思考を当てはめていく365の心のトレーニングがあります。


ワークブックを中心としたブログはよくお見かけするので、ここではテキストを中心に掲載して行こうと思っています。

以前のテキストは、2024年1月7日からのブログに掲載しています。


テキストは難解だと言われていますが

意味が理解できなくても

ただ受け取ることだけを意図して

読み進めていってください。とのことです。



テキスト第3章 無垢なる知覚
Ⅴ. 知覚を超えて


テキスト第三章  罪のない知覚

Ⅴ. 知覚を超えて(大内版)


1、あなたが所有する能力は、あなたの本当の強さの影に過ぎず、知覚は内在的に価値判断をするものであり、分離後に初めて導入されたものであると私は言いました。それ以来、誰も、いかなることに関しても、関心を持つことができないでいます。また、復活は知識に戻るための手段であり、私の意志が「父の意志」と一体になることで、実現したことも明らかにしました。私たちがこれから述べる事柄の一部を明確にしてくれる1つの区別をここでしておくことにしましょう。


2、分離以来、"創造する"と"作る"という言葉は混同されてきました。何かを作るとき、あなたはある特定の不足感、あるいは、必要だと言う思いからそうします。ある特定の目的のために作られたものは何であれ、真の意味で一般的な法則に還元できる性質を持っていません。ある不足を知覚して、その不足を満たすために何かを作るとき、あなたは分離を信じていると言うことを暗黙のうちに示唆しています。エゴはこの目的のために数多くの巧妙な思考体系を発明しました。そのいずれも創造的ではありません。発明の才は、その最も巧妙な形態においてすら無駄な努力です。発明の極めて具体的な性質は、神の創造物の抽象的な創造性にふさわしいものではありません。


3、既に観察してきた通り、知るということは行動することにはつながりません。創造物としての本来のあなたと、あなたが作り上げた自分との間にある混同は、非常に根深いものであるために、どんなことであれあなたが知る事は、文字通り不可能になってしまいました。知識は常に安定していますが、あなたが安定していない事は極めて明らかです。にもかかわらず、神が創造されたあなたは完璧に安定しています。この意味において、あなたの行動が不安定な時、あなたはあなたと言う創造物についての神の考えに異議を唱えていることになります。選択すればそうすることはできますが、もしもあなたが正しいマインドの状態にあるならば、ほとんどそうしたいとは思わないはずです。


4、あなたが自分自身に絶えず投げかけている根本的な質問は、自分自身に適切に向けることができるものでは決してありません。あなたは自分が何であるかを問い続けています。この事は、その答えはあなたが知っているものであるだけでなく、あなたが供給すべきものであることも暗示しています。にもかかわらず、あなたには自分自身を正しく知覚することはできません。あなたには知覚するべきイメージがありません。イメージと言う語は、常に知覚と関連しており、知識の1部ではありません。イメージは象徴的であり、何か別のものを表します。"イメージを変える"と言う考えは、知覚の力を認識していますが、知る必要のある安定したものは何もないことも暗示しています。


5、知るということは解釈を許されることではありません。あなたは意味を"解釈"しようとするかもしれませんが、これは意味についての知覚に言及するが故に、常に過ちを免れることができません。このような首尾一貫性の欠如は、自分自身を分離されたものとみなし、同時に、分離されていないものとみなそうとしたことの結果です。このような根本的な混乱が生じれば、あなたの全体的な混乱がさらに増大しないはずはありません。あなたのマインドは非常に巧妙なものになったかもしれませんが、方法と内容が分離した時はいつもそうであるように、逃げようのない袋小路から逃げ出そうとする無益な試みにおいて使われています。巧妙さは知識からは完全に離反しています。なぜなら、知識は巧妙さを必要としないからです。巧妙な思考は、あなたを解放してくれる真実ではありませんが、あなたがそれを手放す気持ちになれば、それに従事する必要性からは自由になれます。


6、祈りは何かを求めるための1つの方法です。祈りは奇跡の媒体です。しかし、意味のある祈りは、ただ1つ、赦しを求める祈りだけです。なぜならば、赦された者は全てを所有することになるからです。一旦赦しが受け入れられると、普通の意味における祈りは全く無意味になります。赦しを求める祈りは、既に持っているものを認識することができますようにと言う要請以上の何ものでもありません。あなたは、知識の代わりに知覚を選ぶことによって、奇跡的に知覚することによってしかあなたの父に似ることができないと言う立場に自分自身を置きました。あなたはあなた自身が神の奇跡であると言う知識を失ってしまいました。創造こそあなたの源であり、あなたの唯一の実在的な機能です。


7、"神はご自分のイメージにかたどって、ご自分に似たものとして人間を創造された"と言う言葉には再解釈が必要です。イメージ、は、思い、と理解することも可能であり、似たもの、は、似た性質、と理解することもできます。神は確かに「神ご自身の思い」に似せてスピリットを創造し、スピリットの性質を「ご自身の性質」に似せて創造されました。それ以外に何もありません。一方、知覚は、多いか、少ないか、を信じなければ不可能です。あらゆるレベルにおいて、知覚には選択性が伴います。知覚は、受け入れては拒絶し、編成しては再編成し、取り替えてはまた変えると言う連続的な過程です。評価は知覚の必要不可欠な部分です。なぜなら、選択するためには価値判断が必要だからです。


8、いかなる価値判断もなく、完全な平等以外に何もなかったとしたら、知覚はどうなるでしょうか。知覚は不可能になります。真実は知るしかありません。真実の全ては等しく真実であり、どの部分であれ、真実の1部を知る事は真実の全てを知ることです。部分的な自覚に関わるのは知覚だけです。知識は知覚を支配している法則を超越しています。なぜなら、部分的な知識は不可能だからです。知識は全て1つであり、分離した部分はありません。知識と真に1つとなっているあなたは、自分自身を知るだけで良いのです。そうすれば、あなたの知識は完全です。神の奇跡を知る事は、神を知ることです。


9、赦しは分離と言う知覚の癒しです。あなたの兄弟を正しく知覚することが必要です。なぜなら、マインドが自分自身を分離したものとして見る選択をしたからです。スピリットは神を完全に知っています。それがスピリットの奇跡的な力です。一人ひとりがこの力を完全に持っていると言う事実は、世の人々の考えでは全く受け入れられない状況です。世の人々は、もしも誰かがすべてのものを所有していれば、後には何も残らないと信じています。しかし、神の奇跡は神の思いであるがゆえに、神の思いと同じく全体的なものです。


10、知覚が継続する限り、祈りの居場所があります。知覚は不足に依存しているために、知覚する人は贖いを完全には受け入れておらず、真実に身を委ねていません。知覚は分離した状態に基づいています。そのため、少しでも知覚する人は誰であれ、癒しを必要としています。祈りではなく、コミュニオン(聖餐・聖なる霊的交流)が、知っている人の自然な状態です。神と神の奇跡は分離不可能です。神の光の中に生きる神の思いは、なんと美しいことでしょう!あなたの価値は疑いを超越しているがゆえに知覚を超越しています。あなた自身を異なった光の中で知覚しないでください。1つの光の中にいるあなた自身を知ってください。そこではあなたという奇跡が完璧に見えます。


【communion・コミュニオン】具体的には、ホーリー・スピリットと心を交流させること、ひいては、神と意志を交流させること。これは、もはや知覚のレベルではなく、叡智の領域である。(大畑版から)



《テキスト精読・大畑版》

V. Beyond Perception  知覚を越えて


「私は、あなたがもっている能力は本当の力の単なる影に過ぎないと言ってきた。また、知覚は、それは本質的に判断を含むものなのだが、(神からの)分離後に持ち込まれたものであると」言ってきた。分離以前は、直覚によって真実を把握する『叡智(knowledge)』が神の子に備わっていたが、分離後、神の子はその叡智を捨てて、それに代わる『知覚』を偽創造した。そして、知覚によって得られた情報は肉体の頭脳によって処理され、理性的な評価判断を下すようになったのだ。しかし、実相的な真実を知るという視点に立って見れば、幻想世界の諸事実を知覚によって知ったとしても、意味がない。真実を知り得ないのだから、本当の力はないのだ。


ACIM の「復活」は、キリスト教のそれとは大いに異なる。幻想から実相に目覚めること、肉体的存在から心的存在に移行すること、知覚から叡智に復帰すること、それが ACIM の復活である。あなたが復活によって神の子へ回帰することは、神の意志であり、またイエスの意志でもある。神が意志したことは必ず成就し、イエスは復活のための時間を短縮してくれる。


神からの分離以前は、神の子は欠落感も必要性も感じることはなかった。なぜなら、神の子は完璧に満たされていたからだ。欠落感と必要性は神からの分離後に生じたものであり、それを満たすために、泥と塵をこね回して、幻想を作り出す。これは創造ではない。単なるでっち上げだ。空(くう)なるキャンバスに好き勝手なイメージを描き出しているに過ぎない。まさに『空即是色、色即是空』である。


エゴのでっち上げた巧妙な思考システムとは、たとえば、エゴは、幸せを手に入れるにはお金を儲ければよいとして、貨幣と金融システムを作った。幸せを手に入れるには他者の上に立てばよいとして、ピラミッド型の社会的階級制を作った。国家、ひいては家制度もその一つかもしれない。自由意志による選択を許さない制度、完全平等性を維持出来ない制度は、ことごとくエゴの産物だと思っていい。


形あるものはすべて何らかの象徴にすぎない。したがって、この世の形あるもの(具象)は幻想であると同時に、単なる象徴である。形ある物を創造するとき、それが具象である限りにおいて、単なる象徴であり、その創造はレベル的に低位の創造(この世レベルの創造)でしかない。一方、神の世界(実相世界)は具象の世界ではない。神の世界の創造は具象などではなく、完璧な抽象であり、それゆえ、個別化、特殊化のない普遍的な創造である。


真の創造と偽創造との間の違いをわきまえていないから、何かを知覚した後は行動によってそれを確かめ、形(あるいはイメージ)として残そうとする。その行為が創造だと勘違いしてしまう。その結果、叡智によって真実を直覚的に知るという真の創造は不可能となる。2000年前のイエスが、何か形あるものを残しただろうか?


自分が本当は何者なのか、たえず疑問に思っていることはいいとして、その疑問を真摯に自分自身に向けようとしないので、いつまでも疑問をもったままで立ち止まっている。自分自身に向けるとは、自分の知覚や頭脳に向けるのではなく、自分の心、あるいは叡智に向けること。あなたの心の中に住まうホーリー・スピリットに耳を傾けるべきなのだ。


不調和な状態とは、意味を解釈しようとするが、そこに知覚が介入して解釈を誤ってしまうという、一種のジレンマ状態。

「あなた自身を、神から分離したものとして、と同時に分離などしていなものとして、見なそうとする試み」の結果である。確信をもって、自分が神から分離していないと思えるようになれば、意味の解釈も、解釈に至るための知覚も必要ないと理解して、安定的に生きれるのだろうが、神から分離しているのではないかという疑いがよぎると、途端に確信の基盤が揺らいで、不安定な知覚や解釈に逃げ道を見い出そうとしてしまう。


我々は知覚を通し、解釈を経て、物事の意味を理解しようとする。それはそれで、確かに我々の心は、頭脳と連携して賢く巧妙になったように思われるかも知れない。しかし、たとえば、自分は何者であるかという問いかけ(内容)に対して、知覚と解釈(手段)でそれに解答を与えようとすると、つまり、問いかけ(内容)に対して、それにそぐわない(分離した)知覚と解釈(手段)に頼ろうとすると、心は決まって袋小路に陥ってしまう。一旦袋小路に陥ると、そこから何とかして抜け出そうと、心はますます知覚と解釈にすがりつこうとする。あたかも、空を飛ぼうとして水の中で泳ぎを学ぶようなものだ。


「祈りは何かを求めるときの方法である。祈りは奇跡の媒介者である」。祈りを通して、真実が奇跡によって現れる。「しかし、唯一意味ある祈りは、赦しを求めてなされるものである。なぜなら、赦された者はすべてを持っているからだ」。ここは、赦されることによってすべてを持つことが出来るようになる、という意味ではなく、赦された者は初めからすべてを持っているということ。ACIM の赦しは、幻想をありのまま受け入れて、受け流してしまうことである。この赦しによって、幻想は消滅する。そのとき、あなたは叡智を備えた無辜なる神の子として復活するのだ。神の子は、神の属性のすべてを継承しているので、初めからすべてを持っている。

幻想を消滅させる赦しを求めて祈るとき奇跡は現実化され、実相的な真実が目の前に現れる、という構図である。その真実は、あなたがすべてを持っていることを教えてくれるわけだ。


「一旦、赦しが受け入れられてしまうと、通常の意味で、祈りはまったく意味を失ってしまう」。一旦赦してしまえば、それ以上何も祈る必要はなくなってしまう。なぜなら、祈りは赦しを求める行為だから。


「赦しのための祈りは、あなたがすでに持っているものを認識出来るようにと求める要求以上のものではない」。ACIMは自他一如の思想であり、他者を赦すことは自分が赦されることと同一であると教える。他者は幻想を赦されることで、自分がすべてを持っていることを認識することが出来、同時に赦したあなたも、自分がすべてを持っていることに気付く。赦しを求める祈りとはそういうものであって、それ以上ではない。言い換えれば、実相的に存在しないものを求めて祈っても意味はないのだ。


もし、知覚の代わりに叡智を選んだなら、人は何の苦もなく神に似ている自分を自覚出来るはずだ。なぜなら三位一体が真実なら、ホーリー・スピリットと並んだ人間は、神とも並ぶからだ。しかし、叡智の代わりに知覚を選んでしまったら、神に似ている自分を認識するのは至難の業である。奇跡をもって知覚を修正し、自分が神の子であることを受け入れなくてはならない。叡智(実相)の代わりに知覚(幻想)を選択したことで、そんな、いわば黒雲で覆われて真実が見えないポジションにあなたは自分を置いているのだ。


「あなたは、あなた自身が神の奇跡だという叡智をなくしてしまった。創造はあなたの源であり、あなたの唯一の真の機能である」。実相世界の創造とは、真実の拡張増大を意味する。神が神の延長上に愛を拡大して神の子を創造したことで、それがわかる。神の子であるあなたも同様である。真実の拡張増大、創造性こそ、あなたが神の子である源であり、あなたの実相的な機能、あるいは役割なのだ。


「『神は自らのイメージと似姿に合わせて人を創造した』という記述は再解釈の必要がある。『イメージ』という言葉は『思考』と理解出来るし、『似姿』は『性質』と理解出来る」。神は形だけを似せて神の子を創造したのではなく、神の思いや属性を神の子がそのまま受け継ぐ形で神の子を創造した、ということ。


「神は神自身の思考に似せて、神自らに似た性質のスピリットを創造した。その他には何もない」。スピリットとは、神が創造したままの、純粋で神聖な心のこと。「一方、知覚は、『より多く』とか『より少なく』といったことを信じることなくして、存在することは出来ない」。スピリットは神が自らに似せて創造したもの。対して、知覚は、我々の心が神から分離した後に心が勝手に作ったもの。知覚には多い少ないの感覚があるが、スピリットにはそのような程度感覚はない。あるかないか、全か無か、存在するか存在しないか、それだけを知っているのがスピリット。

知覚は、対象のもつ属性を、その違いや程度を計ることで認識する行為である。たとえば、光の周波数が高ければ青として、低ければ赤として、知覚は対象のもつ色という属性を識別する。知覚は、分離した対象を時空間に貼り付けて、分離を維持させようとするエゴの巧妙な策略なのだ。青い色のものと赤い色のものは異なる二つのものであって、よって分離は維持され、よもや青と赤が同一だとは誰も信じない。


「すべてのレベルにおいて、それ(知覚)は選択することを含む」。すべてのレベルとは、肉体レベル、精神レベル、この世のレベル、神のレベル、幻想のレベル、実相のレベル・・・そういったすべてのレベルにおいて、ということ。知覚は頭脳との連携作業であるから、そこには判断というものが介入する。したがって、知覚には判断し選択するという行為がつきまとう。「知覚は、受容したり、拒絶したり、組織化したり、再組織したり、シフトしたり、変化させたり、のような連続するプロセスである」。そのような過程を通して、知覚と頭脳は常に連携して、対象を選別しているわけだ。


★URLから、全文の精読を読むことをおすすめします。


奇跡のコースの原文は英語ですので

訳者によって、表現に違いがあります。

各先生方のテキスト翻訳の

URLも載せてありますので、

是非、参考になさってください。


文章・URL等掲載させていただきました各先生方に

心より感謝致します。


自我は、「今」に意味を見ません。現在とは、過去の傷を思い出させるものに過ぎません。そして、現在に対して、まるでそれが過去のものであるかのように反応します。自我は、決して過去を解放しません。過去は終わったものなのに、自我は、あなたの過去が現在であるかのように反応することで、過去のイメージを保とうとします。そしてあなたは、たった今、会っている人たちに対して、過去の評価に従って反応し、その結果、相手の今の現実を曖昧にしているのです。(テキスト13.Ⅳ.5.1-7)
(これは人だけではなく、すべての物事についても同じです。)

神の平和は
今、私の内で輝いています
その平和の中で全てのものが
私を照らすように
そして私に
自分の内なる光で
全てのものを祝福させてください


今日のプレゼント🎁オリジナル画像

プレゼント画像は

弊舎で神聖幾何学アクセサリーをお買い求めのお客様に

差し上げておりますオリジナルエナジーカードです✨



HSいつも導きをありがとう (❛ᴗ❛人)✧

いつも皆様の光と繋がり

愛を広げることを意図しています


では、みなさま、今日も

ホーリースピリット(HS)と一緒に

素敵な1日を!


感謝を込めて ♡ Yu-ju  &  るっちゃん


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