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(*´∇`)ノ    Yu-ju    &

るっちゃん です ♡ ฅ^._.^ฅ 


今日も奇跡のコースの学びと

ホーリースピリットからの

メッセージ&オラクルカードを

お届けします♡


今日もご覧いただき

ありがとうございます💖


この情報を必要とされるかたへ

届けられることを意図しております



今日のオラクルカード


私たち集合意識全体が今

受け取る必要があるメッセージを意図して

カードを引いています



あなたは詩そのもの


あなたのユニークな本質、あなたの詩的な表現、世界との聖なる共鳴、自由、幸福感、祝福、想像力を最大限に発揮する。


聖なる創造者であるあなたは、どのように自分を表現しますか。あなたの考え、行動、言葉を通じて、自分の光を輝かせていますか。あなたは生きている詩であり、唯一無二のリズムで、魂の物語を語っています。

あなたは神性の表現者として、呼吸し、動き、日々変化しています。あなたは自分の物語にどのように登場していますか。自分を表現し、あなたの光を世界で輝かせてください。あなたの素晴らしい本質を、人生に反映させてください。

過去の辛い記憶や、何らかの障害によって、創造性をフルに発揮できない人もいるでしょう。でも実は、恐れ、心配、罪悪感などは、自分の才能や人生をより良く理解する助けになります。それらの感情と向き合い、共有し、変化させていきましょう。あなたの幸せな未来の為にも、表現する事は必要不可欠ですです。あなたの人生と言う美しい詩の中で、自分を癒してください。

あなたと言う詩は何色でしょうか?

あなたという詩は、人々にどのような印象を与えるでしょうか?

あなたを音楽に例えると、どんなビートを刻むでしょうか

世界を鼓舞し、癒すために、あなたと言う詩をどのように表現すると良いですか?


《ホーリーからのメッセージ》

すべてはより大きな自分(愛)になるために

あなたが自作自演しているのです

あなたのハートがより大きな喜びに満ちるために

そして全体の喜びにあなたを活かすために

今日あなたは何を表現したいでしょうか?

自分が喜びに満ちるために何をしたいかを

自分のハートに問いかけてください




奇跡のコースについて

『奇跡のコース』(ACIM ・A course in miracles)は40年以上にわたり、悩みや問題にとらわれずに真の自分の人生を生きるための心のトレーニングとして、宗教や文化を超え、世界27か国以上に翻訳され、学ばれています。

エックハルト・トール、ディーパック・チョプラ、ジェラルド・ジャンポルスキー、ニール・ドナルド・ウォルシュ、など名だたるスピリチュアルリーダーたちが引用しそれを伝えています。

このコースは、かつて無神論者であったニューヨーク、コロンビア大学臨床心理学教授ヘレン・シャックマンが「イエス・キリストの声」を聞き取り、7年にわたりまとめ上げたものです。

奇跡のコースは自習書であり、テキストとワークブックを通じて奇跡の思考体系を理解し、具体的に毎日その思考を当てはめていく365の心のトレーニングがあります。


ワークブックを中心としたブログはよくお見かけするので、

ここではテキストを中心に掲載して行こうと思っています。

以前のテキストは、2024年1月7日からのブログに掲載しています。




テキスト第三章無垢なる知覚
Ⅳ 誤りと自我

テキストは難解だと言われていますが

意味が理解できなくても

ただ受け取ることだけを意図して

読み進めていってください。とのことです。


テキスト第三章 無垢なる知覚

Ⅳ. 誤りとエゴ(大内版)


1、あなたが現在所有する能力は、あなたの本当の強さの影に過ぎません。あなたが現在持っている機能の全ては分断されており、疑問や疑惑を免れません。これはあなたがそれらをどのように使うかについて確信がなく、したがって、知ることができないからです。また、あなたは未だに愛を持たずに知覚することができるために、知ることができません。分離が程度と側面と間隔を導入するまでは、知覚は存在しませんでした。スピリットにはいかなるレベルもなく、あらゆる葛藤はレベルと言う概念から生じます。「三位一体のレベル」だけが結合の能力を持っています。分離によって創造された様々なレベルは衝突するしかありません。その理由は、レベルはお互いにとって無意味なものだからです。


2、知覚のレベルである意識は、分離後にマインドの中に導入された最初の断片であり、これによってマインドは創造者ではなく、知覚者になりました。意識はエゴの領域であるとみなすのが正確です。エゴは、あなたをありのままにではなく、こうありたいと願っているものとして知覚しようとする、誤ったマインドの状態による試みです。しかしながら、あなたにはありのままの自分しか知ることはできません。なぜなら、あなたが確信を持てるのはそれだけだからです。それ以外の事は全て疑いを免れません。


3、エゴは、分離後の自己の、疑問を発する側面であり、創造されたと言うよりも作られたものです。エゴには問いを発する能力はありますが、意味のある答えを知覚する能力はありません。なぜなら、意味のある答えは知識と関わりがあり、知覚することはできないからです。したがって、マインドは混乱します。なぜなら、混乱することがないのは「1つに統合されたマインド」だけだからです。分離されたマインド、あるいは、分断されたマインドは混乱せざるをえません。それは自らが何であるかについて、必然的に確信が持てないからです。それは自分自身と調和の取れた関係にないために、葛藤の状態に陥らざるを得ません。よって、その諸側面はお互いに対して見知らぬものとなります。これが、恐れが生じやすい状態の本質であり、この状態においては、攻撃が常に可能です。

あなたが自分自身を知覚する時、恐れを感じる最もな理由がたくさんあります。そのために、あなたは自分自身を創造しなかったし、創造することはできなかったと言うことを認識するまでは、恐れから逃げることができないのです。あなたの誤った知覚を真実のものにする事は決してできません。そしてあなたの創造物はあなた自身の過ちを超越しています。それが、やがてあなたは分離を癒す選択をしなければならない理由です。


4、正しいマインドの状態は知っているマインドと混同されるべきではありません。なぜなら、それは正しい知覚にしか適用できないからです。あなたは正しいマインドの状態にいることも可能であり、誤ったマインドの状態にいることも可能ですが、それすらも程度は様々であり、これは知識が関与していないことをはっきりと示しています。"正しいマインドの状態"という言葉は、"誤ったマインドの状態"に対する修正として使われるのが適切であり、正確な知覚を誘発するマインドの状態に当てはまります。それは誤った知覚を癒すが故に、奇跡を志向するマインドの状態であり、あなたが自分自身をどのように知覚しているかと言う観点からすると、これはまさしく奇跡です。


5、知覚には常にある程度のマインドの誤用が伴います。なぜなら、知覚はマインドを確定の領域に導くからです。マインドは非常に活動的です。マインドが分離することを選択すると、知覚することを選択します。その時までは、マインドは知ろうと意図するだけです。その後、マインドは曖昧に選択することしかできなくなり、曖昧さから脱出する唯一の方法は明確な知覚です。マインドは知りたいと言う意志を持った時初めて、その適切な機能に戻っていきます。これによってマインドはスピリットに奉仕する状態に置かれ、そこで、知覚は変えられます。マインドが独自のレベルを作る選択をすると、自らを分断する選択をします。しかし、マインドは自らをスピリットから完全に分離することはできません。なぜなら、マインドは他ならぬスピリットから、作る力や創造する力を引き出しているからです。誤った創造においてすら、マインドはその源を肯定しています。さもなければ、マインドはその存在をただ停止するだけでしょう。それは不可能です。なぜなら、マインドは、神が創造されたが故に不滅であるスピリットに属しているからです。


6、知覚する能力によって肉体が可能になりました。なぜなら、あなたは何かを何かによって知覚しなければならないからです。知覚には交換や翻訳が関わるのはこれが理由ですが、知識には交換や翻訳は必要ありません。それから、創造の歪められた形態である知覚の解釈的機能が、あなたが誘発した葛藤から逃れようとして、肉体をあなた自身であると解釈することをあなたに許します。知っているスピリットは、この力の喪失を甘受することはできません。なぜなら、スピリットには暗闇の能力は無いからです。

このために、スピリットはマインドにとってほとんどアクセス不可能となり、肉体にとっては完全にアクセス不可能になります。その後は、スピリットは脅威として知覚されることになります。なぜなら、光はあなたに暗闇はそこに存在しないことをただ示すことによって、暗闇を廃棄するからです。真実は常にこのようにして過ちを克服します。これは活発な修正の過程にはなり得ません。なぜなら、私が既に強調したように、知識は何もしないからです。知識は攻撃者として知覚される可能性はありますが、攻撃することはできません。あなたが知識の攻撃として知覚するものは、知識は1度も破壊されたことがないために、常に思い出し得るものであると言うことに対するあなた自身の漠然とした認識です。


7、神と神の創造物の確信は揺らぐことなく、したがって誤りとしての創造物は存在しないことを知っています。真実は、あなたが欲する過ちと関わりを持つことはできません。私は人間でしたが、スピリットとその知識を覚えていました。人間であった私は知識によって過ちに対抗しようとはせず、基本から過ちを修正しようとしました。私は肉体の無力さとマインドの力を実施しました。私の意志を創造主の意志と一体にすることによって、当然のことながら、スピリットを思い出し、スピリットの真の目的を思い出しました。あなたに代わって、あなたの意志を神の意志と一体にすることはできませんが、もしもあなたがマインドを私の導きのもとに置くならば、あなたのマインドからすべての誤った知覚を消去することはできます。あなたの道に立ちはだかっているのは、あなたの誤った知覚だけです。誤った知覚がなければ、あなたの選択は確実なものとなります。正気の知覚は正気の選択を誘発します。私にはあなたに代わって選択することはできませんが、あなたがあなた自身の正しい選択をする手伝いをすることはできます。"招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない"は、"すべての人が呼ばれるが、耳を傾ける選択をする人は少ない"であるべきです。したがって、彼らは正しい選択をしません。選ばれた者とは、単により早く正しい選択をする人たちに過ぎません。正しいマインドの人たちは今これをすることができ、魂に安らぎを見いだすことでしょう。神は安らぎの中にあるあなただけをご存知であり、これこそがあなたの実在です。


《テキスト精読》大畑版

IV. Error and the Ego

誤りとエゴ(抜粋)


「あなたが今もっている能力は、あなたの真の力の影に過ぎない」。たとえば、神の子がこの幻想世界を偽創造した能力は、実相的な真実を生み出す創造力の影である。「あなたが今もっている機能のすべては分裂させられ、疑問と疑いを受けやすい」。たとえば、あなたが他者を愛する機能は分裂させられ、憎むという機能を付加される。あなたは、愛と憎悪の間に彷徨(さまよ)い、疑いや疑問をもってしまうのだ。二元論世界の必然である。


「これは、あなたが今ある機能をどう使ったらいいか、確信を持てないでいるからだ。したがって、叡智に到達するにはほど遠い」。たとえば、あなたが神から継承した創造力を何にどう使ったらいいか確信がもてないので、真実を創造し変化流動することない叡智にたどり着けない。「叡智に到達出来ないもう一つの理由は、未だ、愛なくして知覚することですませているからだ」。創造、確信、叡智、愛、等々は一直線上に並んだ真実である。純粋な愛をもたずに、肉体的な知覚だけで生きているから、愛の延長上の叡智にはたどり着けない。たとえば、肉体的な愛欲だけの関係性の延長上には、本当の愛も叡智も存在しない。偽りの愛と憎悪、焼けつく嫉妬に弄(もてあそ)ばれて、疑いの泥沼に埋没していく。


「知覚は、(神からの)分離が、度合いや、側面や、間隔を持ち込むまでは存在しなかった」。神からの分離後、幻想としての時間と空間を知覚(錯覚)するようになった。時間は時間間隔であり、空間は上下左右前後の側面を持ち、距離は度合いである。さらに、我々は区別化、差別化をするために、あらゆるものに度合いを設定し、価値判断のために物事の側面を設ける。「スピリットは、一切のレベルを持たない」。スピリットとは、いわば純粋な心のことである。純粋な愛と叡智に根ざした心である。「そして、すべてのコンフリクトはレベルという概念から発生する」。スピリットは、学びの補助装置として時間と空間を利用はするが、本来、時空を超越したものである。さらに、スピリットは区別化も差別化もしない。レベルという概念から超越している。ところで、我々の心の歪みは、「コンフリクト、衝突、葛藤」という形で現れる。それは知覚によるレベル感覚の歪みであり、レベルという概念そのものに知覚が捕らわれているからだ。


「三位一体のレベルだけが統一可能である」。一般のキリスト教では、神、聖霊、イエス・キリストの三者は3つのペルソナに分かれて存在しているが、本来は同一なものだとしている。これがキリスト教の三位一体である。ACIMの三位一体はペルソナという概念を用いない。ACIMの三位一体は次のようになる。神は神の子を神の延長上に創造したが、神の子は神から分離して、この幻想世界を偽創造した。神は、離れていった神の子のために神の代役であるホーリー・スピリットを創造し、神の子の下(もと)に遣(つか)わし、神と神の子の仲介役とした。神から分離した神の子が、分離という深い夢から覚めて神の下へ回帰したとき、神と神の子とホーリー・スピリットは再統一され、三位が一体となって、神という一点に収斂(しゅうれん)する。純粋一元論世界の完成である。これが、ACIMの三位一体である。実相レベルの統一が可能なのは、三位一体だけある。「分離によって生まれたレベルは衝突するのみである。これは、レベルどうしが互いに意味を持たないためである」。この幻想世界では、たとえば、純粋な愛はレベルの違う愛に分裂させられ、愛から憎悪へと階層化される。愛と憎悪、美と醜、喜びと悲しみ、真実と虚偽、陰と陽、プラスとマイナス、等々、二極に分離した想念は相反する力のベクトルをもって互いにせめぎ合う。変化流動が起きるのだ。二元論世界のこのダイナミズムを歓迎する人たちもいるだろうが、これがコンフリクトを生み、苦と痛みを生み出す。ところが、そもそも、この分離分裂、つまりレベルの階層化は幻想であって、実相的な意味を持たないのだ。簡単に言えば、夜見る夢の中で愛から憎悪へと向かうレベルを作り出し、夢の中で愛憎劇を演じて苦と痛みを味わっているだけである。夢の出来事は意味がないのだ。


「意識、すなわち知覚レベルの意識は、神からの分離後、心の中に導入された最初の分裂である」。心が分裂し、その一かけらが「意識」である。「そして、その意識は心を創造者ではなく知覚者にしてしまった」。叡智を神に投げ返した神の子は、それに代わるものが必要であった。そこで、肉体の目によって世界を知覚し、集めた情報を頭脳によって理性的に推理判断する意識を偽創造した。脳が考えることこそ意識だと信じたのである。ところが、フロイトを持ち出すまでもなく、この意識自体も意識と無意識に分裂している。そして、ユングを持ち出すまでもなく、意識や無意識のさらに奥深くに集合的な意識がある。しかし、ACIMはそれさえも幻想に過ぎないと言う。多種の意識は心が分裂したために生じた幻想に過ぎず、本来の心は神の叡智に満たされた統一体だというわけである。ところで、意識は知覚を情報処理するだけであって、真実を創造することはない。こうして、神の子は創造者から知覚者に落ちたのだ。


「意識は、正確に同定すれば、エゴの領分(に属するもの)である。エゴは、あなた自身をあるがままではなく、そうありたいと望むように知覚させる正しからざる心の企てである」。あるがままに知覚するのではなく、常に欠乏を感じるように『そうありたいと望む自分』を知覚させるのがエゴ。神の子は、神からの分離後、神を裏切った罪の意識と罰への恐れから自己を乖離して、エゴという偶像を作り出した。このエゴに自らの心を支配させ、頭脳をコントロールさせたわけだ。あなたが自分の意識だと主張するものは、エゴの意識である。そのエゴは、常にあなたの欠乏感を誘い、あなたの意識に欲を生み出す。あなたを幻想に縛り付け、実相に目覚めることを阻止しようとするのだ。


「しかし、あなたは、自分自身をあるがままに知ることしか出来ない」。エゴはそうありたいと望む自分を知覚させるが、知覚を越えて自分自身を『知る』という観点に立てば、あなたはあるがままの自分を知ることしか出来ない。「なぜなら、あるがままの自分こそ、確信のもてるすべてであるから。その他のすべては、疑問や疑いを受けやすい」。実相的に知るとは、確信である。真実を知ることしか出来ないのだ。知覚によって知ったつもりになっているものに対しては、常に疑念がつきまとう。確信がないからだ。


「知覚はいつも、何らかの心の間違った使い方を含む」。知覚は心を誤って使いがちである。「なぜなら、知覚は心を不確かな領域に運んで行くからである」。簡単に言えば、知覚することで心が不安に、あるいは不安定になるということ。変化流動する不確かな幻想を知覚するのだから、心は不安を感じるのだ。知覚は、確信からほど遠い不確かな領域に心を運んで行く。

「心はとても活動的になる」。知覚が心を不確かな領域に運んで行くと、心は不安を感じて活動を活発化させる。心がざわめき始めるのだ。「心が分離させられることを選ぶとき、それは知覚することを選ぶ」。実際、心が神から分離したあとで知覚が生まれた。「心は、分離するときまでは、知ることだけを望んでいる」。実際、心が神から分離する以前は、心は叡智を宿し、知ることの出来る心であった。知覚する必要はなかったのだ。

「分離後、心は、あいまいに選ぶことだけしか出来なくなる」。実際、神の子が神から分離するとき、神の子は叡智を神に投げ返してしまった。叡智という確信を失った心は、不確かなものを選択せざるを得なくなる。「そして、あいまいさから抜け出る唯一の道は明快な知覚(をもつこと)である」。神の子は叡智に代わる手段として、肉体的な感覚器官による知覚を偽創造した。あいまいさから逃れるために残された道は、せいぜい、知覚を明快にしておくことだけである。

「心は、(真実を)知ろうと意思したときに限って、それのもっている適切な機能に立ち帰る」。心が、幻想を知覚しようとするのではなく、実相的な真実を知ろうとしたときに限って、心に本来備わった適切な機能が働き出す。「このことが、心を、スピリットに仕える場所に位置させる」。スピリットの仕事が出来るように、心をその場に連れて行く、あるいは、心をスピリットの仕事に就かせる、といった意味合い。心が実相的に昇華したものがスピリットだと思っていいだろう。非常に純粋で神聖な心がスピリットである。ホーリー・スピリットの心が、まさにスピリットである。あなたの心が真実を知ろう意思したとき、スピリットに仕えることが出来るような高い位置に、あなたの心は導かれて行くのである。「その場所では、知覚が変えられる」。もちろん、正しい知覚が出来るように変えられる。知覚が修正され、あなたの心は、心の目をもってヴィジョンを捉(とら)えることが出来るようになる。


「心は、自分自身のレベルを作ることを選んだとき、自分自身を分割することを選ぶ」。構図として、スピリットに包み込まれた心を想像し、その心がスピリットから分離するイメージを描くと分かりやすいだろう。すると、「心自体のレベル」とは、スピリットから切り離した心自体の存在領域、という意味合いになる。したがって、「自分自身を分割すること」と捉えるより、「自分自身をスピリットから切り離すこと」と考えた方がいい。すると、次の文章が理解出来る。「しかし、心は自分自身をスピリットから完全に分離してしまうことは出来ない。なぜなら、心が作ったり創造したりするための全パワーを引き出すのはスピリットからなのだから」。心のパワー源、力の源はスピリットである。スピリットから分離した心は、実相的なパワーをもたない。スピリットから分離した心は、せいぜい、幻想世界の変化流動する混沌にエネルギーを与えて、混沌をますます増加させるだけである。

余談になるが、エネルギーは質量であり、時空間に依存するいわば物質である。したがって、エネルギーは幻想であって、非時空間、非物質の実相世界にはエネルギーは存在しない。実相世界でそれに相当する概念がパワー(power)である。このパワーが実相的な力や光に宿っている。


★URLから、全文の精読を読むことをおすすめします。



【奇跡のコース原典精読・大畑版↓】



自我は、「今」に意味を見ません。現在とは、過去の傷を思い出させるものに過ぎません。そして、現在に対して、まるでそれが過去のものであるかのように反応します。自我は、決して過去を解放しません。過去は終わったものなのに、自我は、あなたの過去が現在であるかのように反応することで、過去のイメージを保とうとします。そしてあなたは、たった今、会っている人たちに対して、過去の評価に従って反応し、その結果、相手の今の現実を曖昧にしているのです。(テキスト13.Ⅳ.5.1-7)

(これは人だけではなく、すべての物事についても同じです。)



奇跡のコースの原文は英語ですので

訳者によって、表現に違いがあります。

各先生方のテキスト翻訳の

URLも載せてありますので、

是非、参考になさってください。

大畑先生版は仏教なども織り交ぜてお話しされていて

なかなか面白いですよ。


文章・URL等掲載させていただきました各先生方に

心より感謝致します。



神の平和は

今、私の内で輝いています

その平和の中で全てのものが

私を照らすように

そして私に

自分の内なる光で

全てのものを祝福させてください



今日のプレゼント🎁オリジナル画像

プレゼント画像は

弊舎で神聖幾何学アクセサリーをお買い求めのお客様に

差し上げておりますオリジナルエナジーカードです✨




HSいつも導きをありがとう (❛ᴗ❛人)✧

いつも皆様の光と繋がり

愛を広げることを意図します


では、みなさま、今日も

ホーリースピリット(HS)と一緒に

素敵な1日を!


感謝を込めて ♡ Yu-ju  &  るっちゃん



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