(*´∇`)ノ    Yu-ju    &

るっちゃん です ♡ ฅ^._.^ฅ 


今日も奇跡のコースの学びと

ホーリースピリットからの

メッセージ&オラクルカードを

お届けします♡


今日もご覧いただき

ありがとうございます❤️


この情報を必要とされるかたへ

届けられることを意図しております


サムネイル



今日のオラクルカード


私たち集合意識全体が今

受け取る必要があるメッセージを意図して

カードを引いています



今日のカードは奇跡のコース学習者

ガブリエル・バーンスティンさんの

オラクルカードです。


私は、健全で愛情あふれる関係を

喜んで受け入れます


《ホーリーからのメッセージ》

この言葉を、1日の始まりに

自分に言ってあげてください。

この宣言によって、あなたのガイドや天使達が

とても働きやすくなるでしょう。

そして健全な人間関係も

健全な地球との関係も

最善のタイミングで具現化されていくでしょう。




奇跡のコースについて

『奇跡のコース』は40年以上にわたり、悩みや問題にとらわれずに真の自分の人生を生きるための心のトレーニングとして、宗教や文化を超え、世界27か国以上に翻訳され、学ばれています。

エックハルト・トール、ディーパック・チョプラ、ジェラルド・ジャンポルスキー、ニール・ドナルド・ウォルシュ、など名だたるスピリチュアルリーダーたちが引用しそれを伝えています。

このコースは、かつて無神論者であったニューヨーク、コロンビア大学臨床心理学教授ヘレン・シャックマンが「イエス・キリストの声」を聞き取り、7年にわたりまとめ上げたものです。

奇跡のコースは自習書であり、テキストとワークブックを通じて奇跡の思考体系を理解し、具体的に毎日その思考を当てはめていく365の心のトレーニングがあります。


ワークブックを中心としたブログはよくお見かけするので、ここではテキストを中心に掲載して行こうと思っています。以前のテキストは、2024年1月7日からのブログに掲載しています。




テキストは難解だと言われていますが

意味が理解できなくても

ただ受け取ることだけを意図して

読み進めていってください。とのことです。


テキスト第三章 無垢なる知覚
Ⅰ.犠牲を伴わない贖罪




第三章 罪のない知覚

Ⅰ.犠牲なき贖い(大内版)


1、奇跡について、まだ残っている恐れが全て消えるようにするには、もう一つ完全に明らかにしておくべきことがあります。贖いを確立したのは、十字架刑ではなく、復活であったということです。多くの誠実なキリスト教徒がこれを誤解しています。欠乏と言う信念から解放されているものであれば、このような間違いを犯す事はありません。逆さまの観点から十字架刑を見れば、まるで、神がご自身の子供の1人が、良い子であるがゆえに、受難することを許し、受難を奨励したようにすら見えます。この誠に残念な解釈は、投影から生じたものですが、多くの人々が神をひどく恐れると言う結果につながりました。こうした反宗教的な概念は多くの宗教に入り込んでいます。しかしながら、真のキリスト教徒であれば、ここで立ち止まって、一体そういうことがあり得るだろうか、と聞いてみるべきでしょう。神ご自身の言葉が、神の子にふさわしくないと明言しているような考え方を、神ご自身がなされることがあり得るでしょうか。


2、最善の防御は、常にそうですが、相手の立場を攻撃することではなく、真実を守ることにあります。いかなる概念であれ、正当化するために、考え方の枠組みを逆さまにしなければならないとしたら、その概念を受け入れる事は賢明ではありません。この手順は細々とした問題に当てはめていくのも苦痛を伴いますが、より大きな規模においては、本当に悲劇的なものです。迫害は多くの場合、神ご自身が救いのために、神ご自身の子を迫害したと言う、恐ろしくも誤った知覚を正当化しようと言う結果をもたらします。そうした言葉そのものに意味がありません。この問題を克服することが、これまでとりわけ難しかったのは、その過ちそのものが他の過ちに比べて修正が難しいわけではないにもかかわらず、防御法として非常に価値があるために、多くの人々がこの過ちを手放したがらなかったからです。もっと穏やかな例を挙げれば、親が子供を打つときに、あなたよりも私の方が痛いのですよ、と言うことによって、親は自分の罪は免除されたと感じます。あなたは、私たちの父が本当にこのように考えると信じることができますか。このような思考は全て一掃することが極めて重要であるため、あなたのマインドの中に、ほんのわずかでも、このような思考が残ることのないようにしなければなりません。私(キリスト)は、あなた方が悪いから罰せられたのではありません。贖いが教える完全に温情に満ちた教訓も、このような歪曲によってどのような形であれ汚されると、意味が失われてしまいます。


3、"復讐は我にあり、と神はのたまう"という言葉は、誤った知覚であり、この誤った知覚によって、人は自分自身の邪悪な過去を神のせいにします。邪悪な過去は、神とはいかなる関係もありません。神やそれを創造もされませんでしたし、維持されてもいません。神は懲罰を信じません。神のマインドがそのような方法で創造する事はありません。神は、あなたの邪悪な行動を理由にあなたを責める事はありません。神があなたの邪悪な行動を理由に私を責めると言うようなことがあり得るでしょうか。このような思い込みがいかに突拍子もないものであるかを認識し、これが完全に投影によって生じたものであることをしっかりと認識してください。この種の過ちによって数多くの関連した過ちが引き起こされていますが、神がアダムを退け、エデンの園から追放したと言う考えもその一つです。あなたが時々、私によって誤った導きを受けていると信じるのも、こうした過ちの1つです。私は、歪曲するのがほとんど不可能な言葉を使おうと、ありとあらゆる努力をしてきましたが、その気があれば、どのような象徴記号でも捻じ曲げる事は常に可能なのです。


4、犠牲と言う概念は、神にとって全く未知の概念です。それは恐れが唯一の原因で生じたものであり、恐れおののく人は極めて残忍になり得るものです。いかなる形であれ、犠牲を捧げるということは、天国におられる父と同じように、慈悲深い存在であれと言う私の指令に反するものです。多くのキリスト教徒には、これが自分自身に当てはまるということがなかなか理解できません。良い教師は、生徒を恐怖に陥れる事は決してしません。恐怖に陥れる事は攻撃することであり、その結果として、教師が教えようとすることは拒絶されます。その結果、学びは失敗に終わります。


5、私は、世の罪を取り除く子羊であると言われてきましたが、これはその通りです。しかし、子羊を血にまみれたものとして描写する人々は、子羊が象徴する意味を理解していません。これを正しく理解するならば、子羊は私の罪のなさについて語っている非常に単純な象徴です。一緒に横たわっているライオンと子羊は、強さと罪のなさは相反するものではなく、ごく自然に安らかに共存するものであることを象徴しています。"心の清き人は幸いなり、彼らは神を見るであろう"も、同じことを別な言葉で表現したものです。清らかなマインドは真実を知っており、これが清らかなマインドの力になります。清らかなマインドは、破壊と罪のなさを混同することはありません。それは、清らかなマインドは罪のなさから、弱さではなく、強さを連想するからです。


6、罪のなさは、いかなるものも犠牲にすることはできません。なぜなら、罪のないマインドにはすべてのものが備わっており、自らその完全性を守ろうと努力するだけだからです。したがって、罪のないマインドには投影することはできません。罪のないマインドは、他のマインドをただ尊重することができるだけです。なぜなら、本当に愛されているものが自分と同じような存在に挨拶する時、自然に尊重と言う形をとるからです。子羊は、罪のない状態、あるいは、恩寵の中にある状態は、贖いの意味が完全に明らかにされている状態であると言う意味において、世の罪を取り除くのです。贖いには1点の曇りもありません。贖いは、光の中にあるが故に、完璧に明白なものです。それを見ることを選択しない人たちが、贖いに近づくことができないのは、贖いを暗闇で覆い隠そうとしているからに過ぎません。


7、贖い自体は、真実以外のいかなるものも放射する事はありません。したがって、贖いは無害性を具現するものであり、ただ祝福を発するだけです。贖いが、完璧な罪のなさ以外の何かから生まれたものであるならば、これは不可能です。罪のなさは悪を知らないが故に叡智です。そして、悪は存在しません。

しかし、罪のなさは、真実であるものについては、全て完璧に自覚しています。復活は、いかなるものといえども真実を破壊することはできないことを実証しました。

光がいかなる形の暗闇も廃棄してしまうのと同じように、善はいかなる形の悪にも耐えることができます。したがって、贖いは完璧なレッスンです。贖いは私が教えた他のすべてのレッスンが真実であることの最終的な証明です。あなたが、今、この一般化された考えを受け入れることができるならば、数多くのこまごまとしたレッスンから学ぶ必要はなくなるでしょう。これを信じるならば、あらゆる過ちから解放されるでしょう。


8、神の罪のなさこそ、神の子のマインドの真実の状態です。この状態においては、あなたのマインドは神を知っています。というのは、神は象徴的なものではなく、事実そのものだからです。神の子の本来の姿を知ったあなたは、犠牲ではなく、贖いが神の祭壇にふさわしい唯一の捧げ物であることを認識します。罪のないものの理解は真実そのものです。彼らの祭壇が実に輝いているのはそのためです。



《テキスト精読・大畑版》

Text - Chapter 3

The Innocent Perception

罪なき知覚

I. Atonement without Sacrifice

犠牲を伴わない贖罪(抜粋)


恐れを消滅させるにはもう一点を明確にしなければならない。


「キリストの磔刑が贖罪を確立したのではなく、復活が贖罪を確立したのだ」。キリスト教徒(あるいはパウロ信奉者)が一般に信じていることとは大分異なる思想である。前段落で、贖罪は命のヒーリングであると述べられている。イエスの磔刑による死が神の子の命を救うのではなく、イエスが復活したことが命の永遠性を示しているのだ。

ところで、キリスト教徒の多くは、イエスの肉体自体が復活したと信じており、イエスが霊的な存在として、つまり、肉体を離れて、霊的に復活したとは信じていない。個人の信仰に異を唱えるつもりはないが、ACIMの基本理念は、肉体は幻想である、ということだ。それを踏まえれば、イエスがわざわざ幻想に過ぎない肉体を再びまとって生き返るとは考えにくい。


「多くの敬虔なキリスト教徒はこのことを誤解してきた」非常に解釈に苦しむ箇所である。直訳すると「不足を信じることのない者は誰でも、たぶんこのような誤解をしないであろう」。この不足とは何か? 金銭や食べ物の不足ではあるまい。精神的な欠如感、愛の欠如感、そういったものととらえるべきだろう。簡単に言えば、自分は神に愛されていない、という愛の不足感である。すると、本文は「神を愛し、神に愛されることで満足している者は、キリストの磔刑を誤解しないであろう」という意味合いになる。この文章の対偶(たいぐう)をとってみよう、「キリストの磔刑を誤解する者は、神の愛を信じきれない者たちであろう」となる。


「私(イエス)は『世界の罪を取り除く、神の子羊』と正しく言われてきた」。イエスが磔刑によって犠牲にされることで、人間の原罪が贖(あがな)われたと言われてきたが、これはパウロの解釈。ここの「正しく」とは、この解釈が正しい、という意味ではない。イエスが世界を罪から救うということが正しいのである。「しかし、子羊を血塗られたものとして描写する者はそのシンボルの意味を理解していない」。子羊を血塗られたものと描写することは誤知覚をしている証拠であり、子羊というシンボルを理解していない。子羊は、神の子の無辜性(むこせい)を象徴しているものだからだ。


★URLから全文の精読を読むことをおすすめします。

 続きも読めます。


奇跡のコースの原文は英語ですので

訳者によって、表現に違いがあります。

各先生方のテキスト翻訳の

URLも載せてありますので、

是非、参考になさってください。


文章・URL等掲載させていただきました各先生方に

心より感謝致します。




神の平和は

今、私の内で輝いています

その平和の中で全てのものが

私を照らすように

そして私に

自分の内なる光で

全てのものを祝福させてください


今日のプレゼント🎁オリジナル画像

プレゼント画像は

弊舎で神聖幾何学アクセサリーをお買い求めのお客様に

差し上げておりますオリジナルエナジーカードです✨



HSいつも導きをありがとう (❛ᴗ❛人)✧

いつも皆様の光と繋がり
愛を広げることを意図します


では、みなさま、今日も

ホーリースピリット(HS)と一緒に

素敵な1日を!


感謝を込めて ♡ Yu-ju  &  るっちゃん



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