こんばんは。



緊急事態宣言が解除された都道府県では練習も再開して、Jリーグ再開の光が少し見えてきましたね!


楽しい日常に戻れるように引き続きみんなで頑張りましょう!








それでは、僕のストーリーの続きを話します。




~小学生時代 前半~




衝撃を受けた2002年。当時小学3年生。



それからというもの毎日友達とボールを蹴る毎日。


朝早く学校へ行きサッカーをして

長休みも昼休みも放課後もサッカーに明け暮れた。


サッカーボールの模様は消え、ベロベロに剥がれ、糸も解けて、ボールがパンクするまで蹴り続けた。

ただただ好きで楽しくてボールを蹴っていた。

(僕でこんなに蹴ったのに、プロにはうまい選手がたくさんいる。その人たちがどんだけボール蹴っていたかは想像もつかない。)



僕は本当に大好きなスポーツに出会ったのだ。






小学校は全校生徒が100人ちょっとで、僕の学年は17人で男子が 11人。女子が6人だった。

全然関係ないけど好きな女の子もみんなとほぼ一緒という事件もあった。


もちろんこの人数の学校にはサッカー部はなく、いつも5~6人とボールを蹴っていた。



当時小学3年生だった僕は山を下りた学校にサッカー少年団があることは知っていたけど、なかなか親にはサッカーを習いたいとは言えなかった。







理由は

父親の会社の倒産後。

家が本当に貧しかったから。



それまで住んでいた家も売り、もちろんギターやドラム、お金になるものはとにかくなくなった。



ただ貧乏エピソードはあまり話したくない。














ある日、

家の前でボールを蹴っていると父が


『山の下の学校の少年団でやってみるか!練習参加行こう』


と、言ってくれました。




ただの生活でさえ厳しいのに、そう言ってくれた時は心から嬉しかった。

その言葉がなければ間違いなく今サッカーはできていないと思う。



それから小学4年生の時に初めて藤尾小学校にある藤尾サッカースポーツ少年団に入団させてもらった。



この当時、父がレアルマドリードのユニフォームをプレゼントしてくれて、

ユニフォームを着て寝て、それを着てサッカーをしての繰り返しだった。

(ちゃんと洗ってたよ)



藤尾では仲間にも恵まれて、当時の監督も4年生の僕を6年生の試合に出させてくれたりして、成長させてくれた。

この頃は点取り屋のフォワードでした。



目標の県大会出場は出来なかったけど、本当に楽しい日々だった。


藤尾で関わったみんなありがとう!!













それから5年生なった時、

母親の務め先の店長さんから

京都紫光クラブへの紹介を受け、練習参加に行くことになった。





つづく。