自身の交響曲 第5番について「作り物の不誠実さがある」と評したチャイコフスキーの気持ち、よくわかります。
わたし、この曲初めて聴いたのが17歳ぐらいのときで、そのとき「なんかちょっとこの盛り上がり方、違うよな」って感じた。どうしてなのか、その理由はよくわかんなかったんすけど、たぶん、この曲に用いられている「運命動機」の用い方が、少し意図的すぎる感じに聴こえたのではないかと、今では当時のことを振り返っていますけど、その頃はカラヤンとベルリンフィルがイエスキリスト教会で録音した、グラモフォンの2000円のLPの名盤シリーズみたいなやつで、カセットテープに音を入れて、何度も聴きましたよ。その後、ロジェストヴェンスキーとモスクワ放送交響楽団や、ロストロポーヴィチ&ロンドン交響楽団でしたか、それから、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルですね、その頃あんまりお金もないし、まあ今もそんなにないんですけど笑、それぐらいの物を、何度となく聴いていました。
さいきん、悲愴にはまってしまい、もういろんな人が演奏したいろんな悲愴ばっかり聴いてる感じでしたが、それだと飽きてしまうので、他のもチョコチョコ聴いてるんですけど、チャイ5など、この前はリッカルド・ムーティとフィルハーモニア交響楽団の全集物を聴きました。
チャイコフスキー5番、書いた本人は作り物だなんて言ってますけど、ぶっちゃけどんな作品も作ったものには違いないわけで、逆に言っちゃえばよく作り込まれている作品なのではないだろうか、というのが私の考えです。まあただ、高校の頃に聴いて感じた、ちょっとわざとらしい感じというのは拭えないですかね。
色々な指揮者やオケの録音を聴いているわけですが、評論家の人などは「普通に演奏してもそれなりに盛り上がる曲」と言う人もいて、その意味ではやりやすい曲なのかもしれない。
ただ、不用意に取りかかると、なんかこう、うわべだけ盛り上がってルだけで、なんかこう中から内面からぐーっと盛り上がってくる感じのしない演奏も時折有るんじゃないかと思いますよ。
チャイコフスキーも、その辺を見越して、「作り物の不誠実さ」と言ったのかもしれない。気安く流して演奏すると、中身のない演奏になってしまって、表面だけチャラチャラしてるような。
なんだかよくわかるなー
ムーティのチャイコフスキー全集は、そんなうわべだけの演奏じゃなくて、かなり気合の入ったいいもののように感じましたね。
5番に関して言うと、第二楽章が印象的でしたよ。私なりの素人の聴き方なのであれですけど、なんかこう、相聞歌のような感じに聴こえました。愛し合う二人の異性、と言うよりも、一個の人間と自然との対話のような、あるいはわたくしとこの世界、との対話のような。
その感じが、次のチャイコフスキーにとっての最後の交響曲〈悲愴〉と、地続きのような感じを持ちました。ムーティによるこの録音を聴いて、はじめてこの感じを感じました。5番の2楽章が、悲愴の世界と繋がっていると言う。どうなんすかね。ど素人の言うことなんで間違ってますけど。私はそう聴こえました、ていうことですね。
〈悲愴〉は、チャイコフスキーの他の交響曲と似ていない、非常にユニークな、独自の音楽的宇宙を作り上げていますが、やはりそこは、過去のいろんな作品があって、その集大成なんだなーと、改めて感じました。