「残照に思うこと」

人とはどうしようもなくちっぽけなものだ。
東山魁夷のこの絵を見ながら思う。
これから夜が訪れる、太陽が光をおさめていくときの、幻の様な色に染められる遠き山々の静かな美しさはなんとも言葉にし難い価値を持つ。

そしてその美しさは留まる事なく、常に動き続けるゆえのものだ。
この後には星も現れるだろう。
青い闇に浮かぶ稜線は謎めいて神秘的だろう。

それに比べ、人が日々すがりつく目先の美しさなどか弱いものである。
それはもう仕様がない。
やはり人はなんだかちっぽけである。

ただ、それを盾にしたり開き直るための口実に使っては勿体ない。
それは素直に「視る」べきものであり、
向き合うものである。

鏡を見ないと自分が見えないのと同じで、それにおいてはじめて自らの尺度を知る。

現実というものはとてもおそろしいが、誰も逃げきれない。逃げても逃げても立ち塞がる。
ならばもう観念して無心で付き合ってみる。お茶でも一杯飲みますか、という具合で。

絶望に盲して溺れていることは実は一種の自己愛でもあったりする。
誰かがいつか、どこかで、きっと心配してくれるはず、私は同情されて救われるべき、という浮き輪ありきなのだ。

卑慢という言葉もある。
卑屈もそこそこにしないと逆にまわりに迷惑をかける。

そして直視することを避けて
無理くりに飾り付けて自らを撹乱させることも自己愛である。
承認、というもので自分を脅迫している。

ほんとうは自分というものこそ挑むべき相手で、
己の事足りなさを常に知り、その欠落において有限を知り、有限の中から我が存在を痛切に知り、そして我が役どころを知る。

そこにはじめて、自分というものは現れるのではないか。
自らの証明を阻む、うごめく一切を今しばし忘れて、
無我夢中に、一途に「今」をやる。
与えられた役に徹する。
誰にでも役どころはある。

主役?脇役?それはその時々の世の風向きによるもので、脇役が主役を食うことだってザラにある。
適材適所、しかもそれはその時々で変わる。
輝ける場所も人によって違う。
そして努力と追求、運(これは僕は心からは信用しない)によってまた色々と変わっていく。

我々を証明してくれるのは、今、この瞬間に得られる感触しかない。
過去も未来も、不確かだ。
強い風が吹けば、飛ばされてしまう。

その感触を求める。例えば自分の手と手を繋ぐ。何も感動はない。
やっぱり誰かが手を握ってくれたほうがいい。十代のころの
人差し指と中指をくっつけて唇に当てるとキスの感じがする、というのくらい激しく虚しい。

その感触というものを(唇じゃなくて)求めはじめると不思議に、
「誰かのため」に繋がり、その感触は、「誰か」によってはっきり実感される。

そう、「自分」のために、「誰か」を要するのだ。
色即是空、空即是色。
僕はこれを当てはめてみる。
「誰か」のためにが、なぜか「自分」のためになる。勝手な解釈だが。

ただ、ここで大事なのは、
徹するという事かもしれない。
心を尽くす。一心不乱とはよく言ったもので、一心にやれば乱れない。
とは言えそれは実践するとなると、もの凄く難しく思える。
でも難しく考えたらいけない。
結構、人はシンプルだ。

笑顔で出されたコーヒーは格別に旨い。食堂のおふくろさんの味噌汁はやけに旨い。たまに父親が頑張って作る卵焼きはなんだか旨い。
多分みんなその時はへんな思惑などないのだ。へんにうまく作って感動させてやろう、となると神様は意地悪で、
多めに塩が撒き散らされたり、ほんだしが手を滑って大量投下されるのだ。

話が飛躍しましたが、
強引にソクラテスの言葉を引用してまとめます。
「ただ生きるのではなく、よく生きることが大切なのだ」

なんて良い言葉なんでしょう。