8月15日は太平洋戦争の終戦記念日だった。戦後75年を経過して先の大戦を肌で感じながら生きている国民が次第に減り50才以下の世代ではかってこの国で戦争があったことすら意識に無い人たちが大勢いる時代になった。
 昭和60年代に活躍していた政治家や作家の方々が当時語っていた言葉の中には現在を理解し、未来に思いを馳せるときには「かって歩んできた日本の歴史を理解し今を生き未来の生き方を考えなければならない」といった趣旨の発言をする人が多くいた。
 特に印象に残ったのは野中広務という当時自民党の幹事長をされていた方の国会における発言で「国のあるべき姿」について述べていたのだが、その語り口には当時の政治家の姿勢について原稿を読むことなく自身の言葉で毅然とした発言の中に政治家としての矜持と姿勢を見ることができた。つまり政治家は明確な政治信条を持ち持論展開するときは腹を切るくらいの覚悟をもって職に臨む、という姿勢こそが国民の信任を得ることにつながることなんだ、ということを私たち国民も「聞く姿勢」のなかにはあったと思う。国のかじ取り役を担う政治家はこうあってほしいものである。
 もう一つは作家野坂昭如さんが自伝的小説として表した「火垂るの墓」だ。戦後の混乱期を生きた、生きようとした兄妹の物語で親を戦災で失った兄妹が食うものも無く生きようとする姿を描いた内容だが、日々の糧が無く水くらいしか物が無い中で兄は妹を思い妹も窮状の中で兄に心配をかけまいと健気に生きようとする。草を食み・・・結果、妹は栄養失調で死んでゆく・・・。支えあう兄妹愛と人が戦争によって翻弄されるむごさが描かれる内容は身につまされるものがあり泣かずにはいられないものだった。
 極限に置かれた人間が「互いを思いあう、慈しみ合う」という根源的なものを失うことなく限りある命を全うする、ということをわが身に置き換えながら生きることができれば(本来は普通にそうでなくてはならないのだが・・・)世の中から「人間」によって引き起こされる愚にもつかない事件なぞは起こらないのだが・・・。
 効率と利便性が優先される現代社会では人間性や情愛といったアナログな部分がどんどん減少してゆき、世の中自体がロジカルで無機的になる傾向が激しくなっている。この傾向がさらに進行してゆくと社会自体が二極化し無機・ロジカル派と自然・アナログ派に分離する世の中になってしまうのでは?といった思いが漠然とではあるがしている。
 米中の動きにも一触即発、といった危機も無いわけではないから日本は日本らしく毅然とした姿勢を保ち、間違っても国と国民が不安定になるような舵取りはしてほしくない、と強く思う終戦記念日であった。