新型コロナウイルスの感染拡大が佳境に入っている地域は、南米やアフリカにシフトしている。ニューヨークで爆発感染したアメリカも未だ先行きは不透明な感じだ。

 ウイルス感染の拡大現象はアジア→ヨーロッパ・オーストラリア→アメリカ→南米→アフリカと推移していて、ほぼ全世界に拡大した状態。今は各地域でワクチン開発と治療薬開発、感染防止につながる生活様式の模索をおこなっている状況だ。


 感染拡大が低調になっている6~9月頃までの4か月間で、どこまで2派襲来への備えができるか?が愁眉の的である。
 

 社会活動はゆっくりと再開しているが、それぞれのジャンルが手探りの状態で動くしかないのが現状のようである。
 3密回避やソーシャルディスタンス確保が行動時の原則になってくると、やはり制限が多くなかなかコロナ以前のような活動はできなくなるり、やりにくいのは確かである。しかし生きるための活動を止めるわけにはゆかないので、ある程度のリスク覚悟で工夫しながら進んでゆくことだと思う。


 延期になった東京五輪。組織委員会は来年3月に最終的な開催可否判断したいようだが、開催4カ月前の判断は少し遅いような気がする。コロナが気象環境でどんな動きをするのか未だ分からないところが多いが、開催するための諸準備を考えると今年の8月末くらいに決めないと間に合わないのではないか?国内の環境整備ができても、来日する外国人の感染可否検査や陽性者が出た場合の隔離・治療体制ができていないと大変なことになり、空港や港を中心とした水際対策ができていないと開催は難しいし、何よりも未だ感染拡大している国々の感染が収まっていないと、とてもじゃないがオリンピックどころではないと思う。


 スポーツが及ぼす影響は多大で、競技をする人にも観る人にも支える人にも大きな感動、勇気、希望をもたらしてくれるものだから、五輪開催が平穏裏におこなわれるならそれに越したことはないし、次の五輪が日本で開催されることがあっても我々世代はたぶんこの世にいないか、ら冥途の土産にはこの目でみておきたい、といった希望はある。


 すべてのアスリートにとってオリンピックへの出場は大きな夢。我々観る側にとっても楽しみな祭典ではあるが世の中の状況、とりわけウイルス感染みたいな未曾有の社会問題がある時の催し開催判断は難しい舵取りとなることは必定だ。
 

 人間に万能はないものだが、窮地のときにこそ大衆を正しい方向に導く力を持つ者こそが真のリーダーといえる。さらに言えば世に公職(奉職ともいうが)といえるいくつかの職業がある。それは政治家、教育者、神職、警察官などである。これらの職業の人たちには信念があり、職をもって世の役に立つという志のもとで活動している人たちだ。一般人は彼らを少なからずリスペクトしながら畏敬の念をもって接する、という関係性が昭和の時代までは営々と脈打っていたものである。

 

 こういった世の成り立ちが日本には永らく息づいていて、歴史の育みとともに世界に類を見ない民族性にもなっていたのである。そこには礼儀や信義、節操、謙虚さ、謙譲といった人間だけが持つ精神性をも生み出していて、これが日本という国のアイデンティティになっていたのである。

 戦後70余年の間にものの価値観が激変し数字、理屈、効率、物事の利便性などの発展とともに、このアイデンティティまでもが片隅に押しやられてしまったのが現代だ。
 

 コロナのような社会変貌をも生み出しかねない時にこそ、もう一度日本本来のあるべき姿を思い起こし、社会全体にそれを啓蒙するような空気が生まれることを政府とメディアが促してくれたら一皮むけた国になるんだろうが・・・・。