「八十島過ぎて別れて行かむ」と不意に私は口に出していた。気づいて、私は、それを心外とした。
あたかも私の行く先は、大むかしの防人とおなじく、対馬である。
東堂太郎が対馬沖でつぶやく一首は『万葉集』第4期(734ー759年)の刑部直三野(おかさべのあたひみこ)作
百隅(ももくま)の道は来にしをまた更に八十島過ぎて別れて行かむ
文意は
幾曲がりの道をやってきたのが、またさらに、島々を越えて別れて行くのか
である。
刑部直三野は上総であるが出身は不明で防人である。防人制度は日本の飛鳥時代から平安時代に律令制度下で行われた軍事政策だ。663年、唐と新羅に対抗して百済とともにあらそい白村江の戦いで敗北し、唐に対峙する危機意識を背景に、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅・渤海)に対する宗主の位置づけを目指した。
「そら晴れて 日あきらか/鏡のごとき うな原を/ゆたかに舟は すべりゆく」と私は、今度は意識してくちずさみ、気分を換えようと試みた。まわりの風情(ふぜい)に全然それはそぐわなかった。四十年前の(ほぼ相接した海路を行った)第二軍軍医森林太郎(もりりんたろう)と今日の私とでは、天候から戦争観に到るまで、あれもこれもあまりに違っていたのである。私は、「かぜなぎて ひるしずか」とまた声に出し、殊更に苦笑してみたが、たちまち「ほととぎす 忍音(しのびね)ながら/一声に 全(まった)き心を/われは籠めてき」に思い至った。
森林太郎は森鷗外の一般名。鷗外(1862ー22年)は島根の出身で、明治・大正期の小説家。評論家・教育者
陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。代表作『舞姫』(1890年)『うたかたの記』(1890年)『ヰタ・セクスアリス』(1909年)『青年』(1910年)『雁』(1911年)『阿部一族』(1913年)『山椒大夫』(1915年)『最後の一句』(1915年)『高瀬舟』(1916年)『澁江抽斎』(1916年)。
森林太郎は日露戦争(1904ー06年)に第2軍軍医として出征し、そうとう好戦的な文章を遺している。それに比べると、割と厭戦的な小説(『趣味の遺伝』)を遺している夏目漱石とは対照的である。
船室に下りて私は横になった。生理的にも精神的にも不快感が募りそうであったから、私は、眼を閉じて眠ろうと努力した。なかなかそれは、山口誓子(やまぐちせいし)の「玄海の冬浪を大(だい)と見て寝(い)ねき」というような眠りではあり得なかった。
山口誓子(1901ー1994年)は京都生まれの日本の俳人。本名は新比古(ちかひこ)。高浜虚子に師事して、水原秋桜子、阿波野青畝らと「ホトトギスの4S」とされたが、のちに秋桜子とともに離反し、『ホトトギス』を脱退、新たな新興俳句運動を展開した。代表句に「流蛍の自力で水を離れ飛ぶ」などがある。
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近代日本の代表的な歌人・俳人に正岡子規がいる。最近未知の句が二首発見され、東京台東区根岸の子規庵に保存されることになったが、この子規庵付近の鶯谷は、全国有数のラブホテル街とのこと。ひぇー。
正岡子規は1867年から1902年まで、34歳の若さで亡くなったのだが、代表作『歌よみに与ふる書』などを読むと、そうとうエキセントリックな人である。なにせ『金槐和歌集』を愛で、『万葉集』に心を震わせ、『古今和歌集』を罵倒するのだから。
『歌よみに与ふる書』など冒頭から紀貫之を毛嫌いし、この人よっぽどラブロマンスに興味ない人なんだなーと思わせられるのだが、「芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり」は、「これが名歌ならば大概底も見え透き候。」と一刀両断。
「嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。」などと言われたなら、もう私(ゆきまる)は何と言っていいのか分からない。
そんな子規の晩年に、忘れられない歌がある。
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
そこでなんで「やはらかに」なのか。自分がもうじき死ぬからだ。子規はそれを自分で分かっていて、仮に来年もその植物に見ることができたなら、それはきっと「やはらか」きものなんだろうな、と自虐めいて聴かれる一種のユーモアだからなのだ。
それを大西巨人に聞いてみたい。そう思っても、それはもうできない。悔やまれる。