「ごめん…。…。○○ちゃん…そろそろ行くわ。」
「うん…。」


「りゅうへい…。」
「○○ちゃん…、行かれへんよ。」
「どうしても、行くの…?」

「ごめん…、元気で。」

みっともないくらいに追いすがって隆平を困らせたら良かったけど、ジャケットの裾を摘まんで引っ張るだけが精一杯だった。





大学時代からの付き合いだった隆平が、部屋を出て行った。


互いの部屋を行き来し半同棲だった頃を経て、就職を機に2人で探した部屋。


オシャレな街に住みたい隆平と、静かで自然を感じられるとこがいい私。


相反する環境ながら、どちらの希望も叶う街は意外にもすぐに見つかった。



学生の頃から使っていたお気に入りのチェストやダイニングテーブルは手離さず、隆平はバイトで得たお金を貯めて、せっせと集めた画集やCDだけをこだわって持ち込んだ。


大学時代からそして引っ越しを挟み、4年の2人暮らしを今、解消させようとしている。



新卒で働き始めた会社での社内研修や取引先回り、仕事を覚えることに精一杯でそれは私も同じ境遇で、唯一の楽しみは2人で缶チューハイを傾ける夕飯のひとときだった。






いつだったか、隆平が帰らない夜があった。
これと言ってそのことを気にもせず、隆平に起きてる何かにもう少し興味を向けておけばなんて…。


たまたま付き合いで出向いたお店、偶然に居合わせた人に運命のようなものを感じたって、そこまで正直に言わなくたっていいのに。


4年紡いだ私たちの生活はあっけなく、幕を閉じた…。





あれから1年経った今、まだあの部屋を引き払えずにいる。



社会人3年目の春。
新人と呼ばれていた頃が少し懐かしくなる頃。




街で流れる大型ビジョンのPVは、隆平の好きなアーティストのそれで、本当によく何回も何回も、寝ても覚めても耳にして、疲れた夜もケンカの時も、ご機嫌な朝も、隆平の音楽的代名詞と言うべき存在だった。


元気にしてますか…。
私はまだ、あの日のままです…。





大型ビジョンに流れる映像をぼんやり眺め、何気なくその向こうの空に目をやる。


雨雲が近づいてる…。
どうりで蒸し蒸しと、今日はやけに肌にはりつくブラウスが気になっていたのはそのせいだ。



「○○さん…?わかる…?」

声のする方へ身体を向けると、記憶の中から手繰り寄せた馴染みの笑顔に目が止まる。

「えっ…、安田くん…?」
「新人研修の時以来やんっ。」
「うん、ホントっ。別々の支店に配属されたきりだもんね。」


「こっちは1人も同期おらんけどな。」
「私のとこも、同期は私だけになっちゃった…。」
「安田くん、頑張ってる?」
「ぼちぼちかな…、今日はこっちの方でお客さんと約束あってん、その帰り…。」

「○○、今日はもう終わりやったら食事行かへん。」
「いいね、行こ行こ。」




入社したての頃、全国から新卒が集められ、最初の1ヶ月を本社勤務で研修をこなした。



接遇、営業ノウハウ、日報の書き方からトイレ掃除に至るまで、新社会人としてのあるべき姿を叩きこまれ、ひと月後に配属が決まる頃には、我慢に耐えきれず辞めていく姿もあった。


安田くんと同じ班だったのはラッキーで、志高い人と一緒にいることで、緊張を切らすことがなかったから、今でも会社を辞めてない理由だと思う。



「○○は結局、希望通りのネット戦略室へ?」
「うん…、営業はやっぱり向いてなかったな。インターンでもやって、自分に1番向いてるかなって思ったんだよね。安田くんは営業、向いてそうだよね。」

「うん…。やっと自分のスタイルいうか、売り込みが定着してきて…、少しずつ結果も出せるようになってん…。」
「っ…、確か社内報でも表彰されてたよね?」

「あぁぁ、あれはまぁ、フツーにやってても順ぐりに表彰されるようになってんちゃうかな」
「またぁ…、謙遜だよ…。」




思い出話に花を咲かせたら、ラストオーダーの時間は迫り、ハッとした安田くんがスマホのディスプレイを点灯させた。


「やってもうた…。」
「…ん?なに…?」
「しゅう…でん…。」

「…っ、そっかぁ…、住んでるとこ、この辺じゃなかったね…。よかったら…、ウチ泊まってく?」
「へ?いや…、女の子の家やで…。」
「安田くんならいいよ、知らない仲でもないし…。」

「もうちょっと自覚せなあかんて、女の子やねんから…。」
「…。」
「ホンマにええ?」
「もちろん。」





隆平と暮らした部屋に他の人を招き入れたのは、あの日以来。

「○○さん…、1人やのに広い部屋に住んでんねんな。」
「うん…、ここに越して来たときは2人だったから。」
「ごめん…、彼氏おる言うてたな。どんくらい?」

「もう1年かな…。そういうわけだから、安田くんは遠慮なく隣の部屋使ってね。お布団敷いておくから、先にシャワーどうぞ?」
「ありがとう…。明日が休みで良かったわ。」



店からの帰りに降られた雨で湿気を含んだスーツをハンガーに掛ける。

就職祝いに両親から贈られたという銀のボールペンが、3年前と同じように胸のポケットに差されていた。


お客さんは使用するボールペンで営業マンを選ぶ、なんて研修当時何気なく放った上司の言葉が甦る。

「安田くん、お布団敷いてるよ?もう休んだら?」
タオルドライしながらキッチンへ向かい、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出した。

差し出したペットボトルはそのままテーブルに置かれ、空いた手にふわりと抱き締められると、同じ石鹸の匂いを纏う安田くんのそれと、混ざりあったのを深く吸い込む。


同じように耳元でもスーっと深い呼吸が聞こえ、凭れるように安田くんに抱きついて瞼を閉じる。


引き離された身体はまだお風呂上がりの熱を発散しきれず、濡れた髪はヒンヤリ首元にはりついた。


髪を耳に掛け、近づく唇に自分のを重ねあわせると、少しずつ思い出してきた。

キスの仕方1つとっても、隆平に教えられたもの…。



「簡単に男を部屋に入れたらあかんて、言うたやろ…。」
「安田くんだから、いいの…。」


寂しかったと言うのが正解だろう…。
細かい理由なんて必要ないとは思うけど、もし問われたらの話。


安田くんの為に用意したひと組の敷き布団に、既にはだけた衣類と縺れた髪で横たわる。


顔の両サイドに手を付くと、ゆっくり片足に太腿を添わせ、脚の隙間をこじ開けてく。

安田くんの頭を抱きしめて首元に近づけたら、首の後ろをチュウって吸われ、痛みにも似た電気が足先まではしる。


「やすだくんっ…」






遅い朝を迎え、昼と兼用の食事を2人で囲んだ。

最寄りの駅まで安田くんを送りつつ、スーパーで買い物をする。

1人分の食事を作るのにはずいぶん慣れた。
隆平がいた時は、キッチンに立つのは休日くらいで私はいつもソファーの番人のよう。


隆平が出て行ってすぐは、何を食べたらいいのかすらわからず、まとめ買いは何曜日がいいかとか、冷蔵庫の食材を無駄にすることも少なくなかった。






特別な約束はしなかった。

会いたくなったら安田くんは来てくれると思ったし、会いたいと思ってくれたならいつ来てもらっても、迷惑など一切感じるはずはなかったから。







でも…、あれから安田くんからの連絡はなかった。

会社で発信される全社メールからアドレスを拾いだす、そっか…、しょうたって言うんだったね。

取り出した過去の社内報、そしてスマホの中にも安田くんはいたんだった。


何気なくタップしたアイコンは、太陽に透かした2つの掌が綺麗にハートを型どった1枚。


彼女…いるんじゃん…。


少しだけがっかりしたけど、さほどの落胆はない…はず。




その日も缶チューハイ片手にTVの前に張りついて、目に映像を映しこむ。


いつも鳴ることの少ない玄関のインターホンが、高々と響いてハッとした。

慌てて立ち上がった拍子に倒れて転がる空のチューハイ。




玄関扉の向こうから顔を出した安田くんの首に、両手を巻きつけてしがみつく。

「ちょっ…、どないしたん…。」
「ごめんっ、安田くんが来るの…、待ってたみたい。」


「○○ちゃん、オレ…。」
「知ってる…、ごめんね。彼女いるんだもんね。」

咄嗟に離れた身体を再び片方の手が引き寄せて、耳元で囁いた。

「悪いこと…、しよや。」
「やすだく…ん。」

言い方は乱暴だけど、扱いは丁寧で優しく、安田くんの胸に抱かれながら、悪いことをして堕ちてく感じがたまらなかった。





隆平と付き合った最後の1ヶ月を思い出す。

2人で探したこの部屋はどうするか、いくつかの話し合いの中で、段々と部屋に帰ってくる日は少なくなり、きっと新しい彼女との生活もじわじわ始まっていたのだろう。



1ヶ月で隆平と過ごした夜は数えるほどだった。


「○○ちゃん、仕事慣れた?」
「全然…、まだ2週間だよ。同期の仲間がたくさんいるから、何とかやっていけてる感じかな…。」

「あんま無理すんなよ。」
「隆平だって、同じでしょ…。お互い、がんばろうね。」



自分のことより私のこと、擦り傷ひとつでオロオロしちゃうし、初めて行く場所にはついて来たがった。


過保護すぎるくらいの扱いがいつからかゆっくりフェードアウトしたことにすら、すぐには気づかない私もどれだけ能天気なんだか…。








「○○さん…、まだ待ってるんやろ…。りゅうへい…くん?」
「っ…、なんで?」
「こないだ寝言で呼んでたで…。」

「…。」
「無理して忘れんでも…、ええんちゃう?」
「ダメだね…。もう1年経つのに。」





それから週に1度くらい、寂しくなる頃を見計らったように安田くんは来るようになった。



冷たくなった心を肌で温めあい、私も安田くんもこれと言った約束や要求はせず、その時に与えられるものだけを素直に受け止め、身体に馴染ませた。



安田くんは彼女の話をすることはほとんどなかったけど、やっぱり終電だけは気にしていたかな。


安田くんの憂う表情から、彼女とは決して上手くいってるようには見えなかったけど。



「りゅうへいくんがもし戻ってきたら、どないする?」


上半身裸でうつ伏せて、顔だけを横に向けた安田くんが髪に手を絡ませながら聞いてきた。



「息が止まっちゃうかも…。」
「うれしくて…?」
「そう…、うれしくて。」



「りゅうへいくん戻ってきたら、そん時は終わりなんかな…。」


ありもしないような出来事のくせに、想像しただけで胸がギュッと潰されるようだった。





その日珍しくインターホンではなく、私のスマホを鳴らした安田くんがしばらく会えないと言ってきた。

理由を聞いても誤魔化され、なんだもう会わないならはっきりそう言ってくれていいのにって半ば投げやりな気持ちになったけど、安田くんの声色からその日はしつこく問い詰めた。







ポニーテールのうなじ、額から滲む汗をよそにもつれる足がもどかしい。



たどり着いた馴染みに薄い街は、安田くんが働き、暮らす場所。

スマホの地図を頼りに大きな白壁の建物を目指して歩くと、駅から10分ほどもかからず目的地を捕らえた。





院内へ続く自動ドアの向こうから、流れる汗が一気に引いてくほどのひんやりした空気に包まれる。



無我夢中でここまで来てしまったけれど、扉の前で我に返った私はノックする手に一瞬躊躇った。


お見舞いにこられるのはさすがに迷惑だろうか…。

せっかくここまで来たし、顔くらい見たい。
彼女と鉢合わせたら、同じ会社の同僚ということで済ませばいい。



「こん…にちは。失礼しま…す。」
「○○さんっ。」
「安田くんっ…。」


いつもと変わらぬ笑顔で迎えられると、さっきのためらいもどこかへ飛んでいった。


「心配したよ…、しばらく会えないなんて…」
「心配…?寂しい、の間違いやろっ。」
「ん…。でも安心した…。」


「すぐ退院できるわ…。でもな、そのあとも激しい運動とかはすぐには控えなあかんねんて…。残念やなぁ。悪いこと、できへんな…。」
「もぉう…。」


少しだけ引かれたカーテンの向こう、病室の引き戸がカタカタとスライドする音にいっときの緊張が走る。


空調の風でヒラヒラと揺れるカーテンの向こうから姿を現したのは、安田くんと指で型どったハートの片方…。


《章大っ、入院したんだってっ?》
「亜沙美っ…。」
「あ…、こんにちは。私、会社の同僚の…」

《なんだっ、ちょうど良かったじゃん。新しい彼女できたんだね。これでお互いさまっ、私も早目に荷物出さないとねっ。》
「いや…、亜沙美っ。来てくれてありがとっ。もっとちゃんと話せえへん…」

《っ…。外で彼氏、待たせてるし。もう行くね、元気そうで良かった!》


コンコンと扉をノックするとともに引き戸が解放されると、遠慮がちに顔を見せたひと。


《亜沙美っ…、部屋間違えてへんかった…》
《隆平、ごめんっ。大丈夫、行こ…。》




やっぱり心臓は…、止まったかも。
一瞬だけど…。



事情を掴めてないのは、亜沙美さんだけだったのがせめてもの救い…。


じゃあごゆっくりと、って嵐のように現れてサーっと引くように彼女と隆平は病室を後にした。



それから視線を落とした安田くんは下唇を噛んで、ゆっくりと口を開いた。






to be continued…