静岡市街から一時間ほど進んだ、山深い土地に「川根本町」という場所がある。SLで有名な大井川鉄道や、大きなダム、吊り橋が通っていることで知られているエリアである。

 

この静かな山間の公立小学校に「イエナプラン」を導入したクラスがあると聞いたのはつい1ヶ月ほど前のこと。

 

 

 

 

イエナプラン教育

ドイツで始まりオランダで広がった、一人ひとりを尊重しながら自律と共生を学ぶオープンモデルの教育のこと。

 

今回、そのクラスについて教えてくれた知人とともに実際に学校見学をさせてもらえることになった。

ここでは、そこで目にしたユニークな「授業」について語ってみたいと思う。

 

 

 

 

公立小学校×イエナプラン 

 

 

イエナプランのメソッドの中で根幹となる要素はこんな感じだ。

 

・インクルーシブな思考に向けた養育
・学校の現実の人間化と民主化
・対話
・教育の人類学化
・ホンモノ性
・自由
・批判的思考に向けた養育
・創造性

 

この中でもより象徴的なイエナプランの特徴といえば「対話の時間」だろう。
学ぶ人たちはクラスルームにあるサークルに座り、考えたこと・思ったことを口にする。
発表会ではない。
個人的でもない絶妙な規模感で自分の思考を口にすることができる。
もちろん、言わないことも尊重される。

 

 

 

学校の一日 

 

静岡市側から行くと「山を超え、山を超え、また山を超えた先にある、桃源郷みたいなエリア」それが川根本町だ。

千頭駅から友人が運転してくれる車で15分ほど行ったところに、その小学校はあった。
縄文土器が発掘れる土地らしく、校門内側には大きな縄文土偶がいた。
なんともいえない、緩くて穏やかな風がただよっていた。

 

 

 

濵(はま)先生という方 

 

職員室へのご挨拶をしようという時、軽やかなスタイルのメガネの男性と廊下ですれ違った。
「おはようございます!」
鮮やかな色味のシャツのその先生は、さながら海外の旅先で出会うゲストハウスのオーナーのように軽やかで、価値観にしたがって生きてきて、きちんと行動してきた人が持ってる独特のシンプルさをたたえていた。
その方こそ濵(はま)先生。
イエナプランを実践されている方その人だった。
 
 
 
 
 

 

クラスの様子 

 

この4月に3つの学校が合併してできたという小学校。いわゆる普通の大きさの教室には、児童が15人。ドアを入ると、部屋の3分の1くらいのスペースを使って、イスがサークル状に並べられていたのが目に入った。
そのサークルを囲うような形が、5つの机と椅子のグループが3グループ分。明らかに意図的にデザインされた並び方だった。

 

 

 

授業の進め方 

 

学校にはチャイムはない。
濵先生がサークルのイスに座ると、子どもたちも席についた。
いろんなタイプのイスがある。背の大きなイス、小さなイス、色も形も様々だ。
座る席は決まっていない様子。

 

先生が話をはじめる。


とても穏やかな声だけど、サークル内にいればきちんと行き届く程度の、心地よいボリューム。1日のスケジュールの確認などを済ませると、1人の女の子がおもむろにタブレットを取り出した。何かがはじまりそうだ。

教室には大きなモニターがあって、しばらくすると画面に鳥の動画が映し出された。
女の子が自分の手元のタブレットからキャストしているようだ。

 

どうやらそれは1つのシェアタイムで、今日は女の子が自分の家で孵化した鳥の映像を持ってきたようである。

 

動画は3分くらい。

 

動画が終わると、皆口々にその女の子に動画を提供してくれたことへの感謝を伝えた。

話している人の妨げになる人がいないのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 

教育の本質って? 

 

その後、午前中いっぱい、教室の様子を見学させてもらって気づいたことがある。

 

 1.曖昧さがない

 

曖昧さのなさを感じたことの1つは教室のレイアウトに象徴される。前述のサークル空間に加え、机を班の状態にした島が二つほどある。


いわゆるHR的な時間はサークルで過ごし、それ以外の時間割的な時間のうち、物を書いて過ごす場所は班の机で過ごすことが決まっている。

もう一つは、「声を含めた音のボリューム」が決まっていること。


黒板のスペースに、信号機の工作のようなものがある。各色の上に、パタンとフタができるような仕立てになっている。
しばらく見ていると分かった。

・信号機が赤の時→おしゃべりNG
・黄色の時→小さな声ならOK
・青信号の時→普通に話してOK

 

色によって、ルールが変わるるようだ。

授業的な時間が始まると、子どもたちは特に具体的に指示されたわけではないのに各々席についた。

 

誰が号令をかけるわけでもなく、皆がバラバラと自分のワークをスタートさせる。
とても静かで、動きが忍者のようだ。

信号機を見ると、「赤」だった。

 

 

 

教室は完全な無音。
みんな、それぞれに集中していた。中にはジェスチャーや目くばせをする子もいるのだが、とにかく一様に「音を出さない」を徹底していた。

 

無音はおよそ30分続いた。


その頃、先生がBGMを再生したようだった。心地よいカフェのジャズ音楽のような音が小さく教室を包んだ。

気づけば「信号機」の色は黄色になっていて、子どもたちは時折コソコソ話をしたり、ノートを覗き合ったりしていた。


それでも大きな声を出す子はおらず、周りを気にする子も皆無だった。

子どもに限らず人の集中力は持って30分と言われている。
私は見学をしている立場だったが、無音の時にはそれ相応の集中力が発生したし、30分してBGMの音がほんのり聞こえた時に、神経がほころんだ。きっと子どもたちも同じだったと思う。

 

 

 2.とことん自律的

 

午前中は「週計画」と言って、いわゆる科目別の授業が行われるのではなく、最終目標が制定されている上で、子どもたちが個々に自分の配分とペースで課題を進めていくという、いわゆる「自律学習」だった。

 

先生は、教室にいる妖精みたいな佇まい感で、まるで空気のように軽やかに子どもたちと穏やかに関わっていたし
課題が進まない子に、隣の子が一生懸命教えていたりしているのが印象的だった。

 

決められたルールが曖昧でないこと・シンプルであることは、その範囲であれば自由に泳げるという自由さにつながるのだと思った。

 

 3.程よくゆるい

 

厳密にルール化されている点といえば、主にレイアウトと節目の時間ということになるのだろうか。
サークル部分に椅子がならべてあることや、班の形をした机が整った形をしていること、それから部屋の片隅にカーテンとついたてで作られた小さな仕切りスペースがあることなどが印象に残った。

それ以外の部分はむしろゆるさとフレキシブルさに満ちていた。

先生がDIYをされるのがよく伝わってくる、木材が壁の方に沿わせてあったりとか、掲示物の張り方もそこまでピシッとたてよこそろえる感じではなく、子どもたちが一生懸命張った跡とか、あえてまあるくランダムに張ってあったりなどしていて、個人的にとても安心感を覚えた。

おもしろかったのは、ロッカーの上にパンが置いてあったあることだ。


聞けば、ベランダに鳥が遊びにくるための餌入れがあって、(それも先生が作成したもの)、そこに入れるための餌として残ったパンを置いているのだという。

 

そういうほっこりすることと、ユーモアと、遊び心がこの「ゆるさ」の中に散りばめられていて、余白感でホッとする心地を得た。

 

 

 

 

 4.休憩時間は「ない」?

 

自律的なクラスの時間は静かにスタートして、音を出す時間、どちらでもいい時間等あるという話は前述の通りだが、とりわけ興味深かったのは、時間の区切りも特に設けていない点にあった。チャイムがないのはもちろん、私が常々、個人的に最も不毛で意味不明だと思っている
 

「先生、トイレ行ってきていいですか?」


というやりとりも、ない。

 

子どもたちは、自律学習の間にトイレに行きたくなったらスッと出ていき、スッと戻ってきた。

 

―思い返せば

「小学校でトイレ」

といえばいろんな思い出がある。


先生に

「トイレ行ってきていいですか」
と言えなくて、漏らしてしまう子。

 

「トイレ行ってきていいですか?」
と言って、教室を出たらサボりだして、なかなか帰ってこない子。

 

「トイレ行ってきていいですか?」
と言って、教室を出てサボっていると思われたくなくて、急いで用を足してくる子。

 

いずれにしても、授業中の教室というのは常にそれなりに緊迫していたし、トイレに行くことは、その緊迫感から一瞬開放されることでもあった。

教室と廊下の間には明らかな線があったし、休憩時間になるとスパークしたような感覚になったものだった。

 

それが、ないのだ。ぜんぜん。

 

そもそも教室の中にいる時点で安心しているため、トイレに行ったところでそこにとどまる必要がないという感じ。
休憩を取りたければ、自分のペースで休憩をとればいいだけの話。


10分間の休憩、というのはつまり、それ以外の時間に休憩をとることはNGという裏があるわけだ。

 

本来当たり前のそういうことが、新鮮に目に映った。何より、その状況をすでに当たり前に享受している低学年の子どもたちが、まるで空気を吸うように自然にトイレに立つ姿が、とても健やかだと感じた。

 

 

 

 

まとめ 

 

午前の最後は、音楽の授業のため子どもたちは教室移動となり、からっぽになった部屋で濵先生の話をうかがう時間をいただいた。

 

先生が、オランダまで行ってイエナプランの勉強をされた背景、いざ日本でイエナプランを実行したときに直面した、スムーズでなかったあれこれなど

一朝一夕に実現できたわけではなかったこれまでの紆余曲折についてお聞きできた内容はリアルだった。

問題の主は、ここが日本である、ということ。

教育に理念や理想は常に必要だし、つねにアップデートされるべきだと思う。

 

一方で、目の前にいるのは、生身の人間で背景にある文化や習慣も考え方もオランダのそれとは違うし

「ここは残そう」「ここは取り入れよう」「ここは新たに工夫を施そう」といったように、あらゆることを取捨選択&つくりあげてこられたことがありありと伝わってきた。

 

もちろん、最初からこういう状況ではなかったという。
丁寧にこどもたちと向き合ってきて、伝えて、信じて、毅然とするところ、抜くところのメリハリ箇所をしっかり持つことで、ここまで先生が育ててきた時間があることは明らかだった。

 

ここまでレポートを読んで

 

「でもきっと、イエナプラン導入に向けて、子どもたちも選別されているのでは?」

 

と思った方もいると思うが、実際はその逆。

課題は山積みだったという。子どもたち自身も不慣れな環境からのスタートだった。

 

そこから、サークル作って自律学習ができる今にいたるわけだから、どれだけ丁寧に先生がイエナプランをデザインして調整してこられたのだろうかと。

 

ともすると、教育現場で起こりがちな、本末転倒な事態。
本来は子どもたちのポテンシャルを引き上げることが教育の最大の目標であるはずなのに、いつの間にか子どもたちが授業計画を達成するための役割を担わされてしまっているような皮肉な展開になっていたり。

 

グループで発表する時も、発表内容そのものが内発的であるかはさておき、発表会という形を達成することが暗黙の目標になっていて、モチベーションも内容もすっからかんだりする皮肉な現実とか。

濵先生のすごいところは、この本末転倒を起こさないことについて非常に敏感な点だった。

自分自身、学校で授業を持っている立場で感じ入ることがある。

本当に生徒の内側から出てきたやりたい・学びたい気持ちに触れるときの温度感というのは、当事者同士として明らかではあっても、目に見て分かりづらい。往々にしてテンションも低くじわっと広がる静かなタイプの非言語の興奮なのだ。

 

働く先生の承認欲求みたいなものって、それなりにあると思う。あって当然だ。


「本日はこのようなグループワークをして、このように堂々と発表を行いました」
 

と報告する方が、立派な先生っぽいし保護者ウケもするだろう。


学校のホームページにもキャッチ―で活動的な授業風景を掲載できるかもしれない。

 

でも、そっちにフォーカスして「子どものためにやっています」感の演出にフォーカスしすぎるがあまり、結果的に子どもを置き去りにしがちなポイントって絶対にある。


私はかつて、どちらかというと学校に正解を置きにいっていたタイプの子どもだったから、その本末転倒ぶりもこども目線ながら記憶にわりと鮮明だ。

 

このことにまつわる感覚として

自分が実際に学校で授業を持つようになって、分かったことがある。


本当に本質的に子ども主体である環境を作るって、理念にまつわる先生のぶれない意志が必要なんだな、って。

 

そこを外すのはめっちゃ簡単だ。
先生ってびっくりするくらい、忙しいから。



濵先生は、そこを見逃さない。
そこが徹底していて、先生のやわらかい雰囲気の中にスっとした一本まっすぐな軸を感じた。

 

とても

とても良い時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

さいごに 

 

今回うかがった静岡県の「川根本町」は教育への取り組み内容がとても手厚いように思う。ICT教育の取り入れも早く、公立小学校にイエナプランのクラスを置く試みももちろん、新しい学校づくりに余念がない。

 

大自然が広がるこの素敵なエリアが、健やかな学校教育を中心にさらにキラキラ活性化することを願うばかりだった。

 

すごいぞ川根本町!