K君。

高校3年生の彼は、中学三年まで特別支援級に在籍していた。

「僕は、アスペルガーとADHDを両方持っていて、人ととおり発達障がいにまつわるワークとか、やってるので。誤解されることも多いので、無理やり顔つくってます。」

と聞いてもいないのに、自慢話をするかのように次から次へと話をする。

自分で発した言葉を、連想ゲームみたいにつなげる会話展開だ。

 

 

つまるところ話が終わらない。

そして、着地点がない。

 

 

要は

 

「まったく、空気が読めない」

 

人なのである。

 

 

 

―クラスは25人程度。

K君が話を始めると、他の24人は

 

「またか」

 

とばかりに、慣れた「あきらめ感」を醸し出す。

 

 

当初、私は、若干のやりづらさを認めつつも

 

「理解者でありたいな」

 

と、思っていた。

マイノリティーの存在に寄り添いたいという、完全な私の勝手な欲である。

 

 

―と、最初はそんなぐあいだった。

 

でも、K君と話をしたり、小論文の授業で書いた文章を見せてもらうなどにつけ

 

彼が、実際にものすごい深く観察し、考察している人であるということをつきつけられることになる。

 

深くて博識で、おもしろいのである。

 

 

私は少しずつ彼に興味を抱くようになって行った。

連ねる文章は、たまに「連想ゲーム」みたいに本題から別の方向に行っちゃうこともあるが、知識の幅があるのでうなづきポイントが多かったり、視点のユニークさに特徴があった。

 

そんなふうに、表現が豊かなことに加え

何より、私がK君を好ましく思う理由は

 

彼が、とにかく「ものすごくひたむき」だからだった。

 

 

 

 

 

 

 

黒縁めがねに、ぎょろりとした大きな目のK君は、ある時こんなことをいった。

それは、国語の授業で「心の痛み」に触れたときのことだった。

 

相変わらずどこに焦点を当てているのかわからない視線のやり方で、不自然に口角を挙げ、1.5倍速くらいのスピードで、彼はこんなことつらつらとつぶやいた。

 

「いや、痛みっていうのがもう思い出せないのです。だからこれは書けないテーマですね。

先生、痛みってね、受け続けると無くなっていくんですよ。ボクは家で殴られてばかりで痛くなくなっているのでね。あ、ちなみになんで、ボクがニヤニヤしながらしゃべるかっていったら、真顔でこうやってしゃべると相手に不愉快に思われるから、殴られたくなくて、あえて口の端をあげて、ふざけているようにわざとしているからなんですけどねー!そしてぼくはよくしゃべるのに、お兄ちゃんはおとなしいんですよ。おにいちゃんは…」

 

 

そこからさらに言葉は続いたんだけど、ひょうひょうと(そしてニヤニヤと)しゃべり続けるK君の会話の内容に、ところどころ本音が隠されているような気になってしまい、つい耳を傾けてしまった。

 

実際、K君の話は、よく聞いてみると深い知識と好奇心に基づく興味深い内容ばかりなのだ。

 

 

―でも、現実は

 

みんなうんざりしていた。

 

 

 

 

私は自分が彼をおもしろがることができることで、どこかで分かって気になっていたのだろう。

実際は、まったくうまくはいかなかった。

 

 

 

私は通常授業以外にも、「ゼミ」という選択授業を担当しているのだが

その「ゼミ」にK君は参加していた。

 

 

ゼミは少人数で10人程度、基本的に発言は自由な空間にしていた。

こちらの問いかけにいちいち手を挙げてもらい、当てる、みたいな状況は避けたかったこともある。

 

K君は、自分なりにかなり頑張っているが

やっぱりひとたび発言すると、止まらなくなってしまった。

 

私は、そこに耳を傾けた。

傾ける「べき」だと思っていた。

 

 

 

ー結果

 

 

「K君が話が長く、人に話を遮るみたいで嫌だから」という理由で

すでに10人中3人が私の授業をボイコットするようになった。

 

問題になってきたので、一度校長先生に相談した。

校長先生はこうおっしゃった。

(校長先生は非常にリベラルで公平で、私はとても尊敬している。)

 

 

「K君に寄り添うこと以上に、他の生徒を守る必要があるんですよね。」

 

と。それからこうおっしゃった。

 

 

「いや、むしろK君に寄り添うからこそ、ルールを徹底して伝えてあげなければ行けないと思うんです。K君は卒業して別の環境になっても、生きていく。今、『尊重』という名のもとに耳を傾けることが大事なのももちろんだけど、彼がこれから生きていくのは、社会だから、本当の意味で愛情を示すのであれば、『ここで、自分の話をしすぎると他の人の時間を奪う事になる』と伝えてあげることなのではないかと思うのです。」

 

 

と。

 

(たしかに!)

 

 

ーと、とても理解した。

 

と同時に

 

(私にはかなりむずい。)

 

と思った。

 

私は生徒たちを導くことができる「先生」ではないな、のだと悟ってしまった瞬間である。

 

 

自分が今の学校にいる意味があるとしたら

 

「導く」とか、「采配をする」という技術の方ではなくて

 

 

 

「おもしろい人をおもしろがる」

というその一点にのみだったのだ。

 

 

―愕然とした。

ぜんぜん、先生じゃなかった。少なくとも、私が思う「適切な先生」ではなかった。

それは残念なことだった。

 

一方で、ボイコットした生徒について考えても見た。

 

で、「そこに配慮をすべきだ」という考えに触れたとき

ひとしきり納得して、反省しそうになりつつ

 

 

(…なんかヤダ)

 

 

と、ふと思ってしまったのだった。

 

 

 

結局、「意見を振っても黙っているくせに、意見を長く語る他の生徒がウザいからとボイコットする生徒」に

そもそも私はちっとも同情ができないのだった。

 

そもそも、やる気がないのなら、全然そのままでいれば良い。

寝ていたいのなら、ぐうぐう寝ていて欲しい。ヨガマットを敷いてあげたいくらいとすら本気で思っている。

「親が卒業してほしいから入学させた」パターンもあるだろう。

 

「寝てな」と思う。

親心的に、本当にそう思う。

 

もちろん授業に食いつく人には全力で展開する。

でも、みんながみんなそうでない。

人間だしね。

 

 

少なくとも、そこをパリっと制するのは私の立ち位置ではないな、と理解した。

(だいいち「起立・気を付け・礼」が嫌で嫌でしかたない。)

 

 

「教育者」とは的外れな自分自身を認めるしかなかった。

 

 

一方で、学校の「先生」的な立ち位置はとても大好きだと思っている。

 

課題に対して、スイッチ入って話過ぎてしまうK君や

話すぎてしまうK君を受容しながら、自分の意見も伝えることができる人たちに、めいっぱい近づいたて話をすることができるからだ。

 

非常勤講師で入社していて、あわよくば正社員のキャリアに向かおうかと思った気持ちもあったが、やめておくことにした。

 

他の責任ある仕事は、私以外のスキルの高い先生にお任せするべきなのだ。

 

 

私は手段に関わらず「表現」をしてくれる生徒たちが、個人的に好きなのだ。

 

どんなに不器用でも

自分のやり方で表現しようと頑張る人は

 

どうしたって「応援したい!」と思ってしまうのだ。

 

全体が見えていないと、つっこまれるだろうか。

現職の先生たちがみたら「甘いな」と人差し指立てて「チッチッチ」と迫ってきそうである。

 

 

 

―いろんな生徒がいて

いろんな問題が起こるなあ、と思う。

 

 

でも同時に思う。

 

 

彼らが卒業して、10年経ったとして

忘れっぽい私は名前を憶えていることがあるのだろうか、と。

 

そんな中

 

「あ、K君の名前は忘れないだろうな」とそんな確信を持った。