私は本当に長い間、自分に全く自信がありませんでした。

自信ってなんなの?
どうしたらできるの?


ってずっとずっと悩んで苦しんでました。
私の周りには教えてくれる人がいなかったのです。

でも自分の深い心の中を見ることができるようになってきたら、


自信て作らなきゃいけないの?
どうやって?
って本当に焦ってつらくてでも全然納得いかなくて…
仕方がなかった…

いつからこんなふうに自分はなっちゃったの?

どうしてこんなに自信がないんだろう?
どうして悩まされるの?

なんで?

何がきっかけ?

自信て何?



私の場合、きっかけはほんの子供の時から繰り返し母から言われた『当たり前』という言葉でした。

子供の頃、本当に繰り返し繰り返し言われた言葉でした。

この言葉が私の“自信”を阻害していたのでした。

母の私に対する口癖は、

何をやっても何か理由をつけて『当たり前』
私の努力や達成感は彼女のこの一言でいつもどん底に突き落とされていた。

私は彼女のこの言葉で自分が何者なのかがわからなくなり、
自分を見失ったのだなあと気づきました。


褒められたくて、なんとか認められたくて頑張ったことは全て『出来て当たり前』

ああこんなカラクリに雁字搦めにされていたのかと分かって力が抜けました。

なあんだ!だったら私が私のことをちゃんと見てあげて

ちゃんと褒めてあげればいいだけのことじゃない!

と気づけました

だってそんなことばかり言っていた私の母は
本人に全く自信がなかったのだもの。
自信の無さは母のコピー
あまりに酷いことばかり言われたのである日、彼女を問い詰めたことがあります。

「お母さん、じゃあ“自信”ってなんなの?」
答えは「私も知らない」
つまり本人に本当はそもそも自信がない。

その言葉を聞いた途端、もう絶望しました。
いったい自分が何をやってきたのかわからなくなってしまいました。
何を信じていいのかわからない。
だから怖くて外に出られない…


私は何をやっても達成感を得られず自分がわからないままずっと生きてきました。


でも自分をちゃんと見ることができるようになったら
『当たり前』
という私の努力も私の喜びも全て無に来させてしまっていたこの言葉と
きちんとお別れできました。
だって本来なんの力も意味もない。
母の口から出ていた身勝手なご意見に過ぎない。
私自身とは全く無関係。


そしたら
本当に無実の罪で心の中が苦しく、無力感でいっぱいになって歩いていた自分を見ることができて
あるがままの自分を
抱きしめにいってあげられるようになっていました。

自信って自分を認めること…

本来苦しみや辛さや焦りとは無縁

何か特定のことの優劣ではない。
judgmentすることで全てが狂う。
あるがまま、今この瞬間
judgmentしないで今、生きていることを認めること。
あなたを苦しめているのは
もしかしたら本当はなんの根拠もないなんの力もないただの言葉、

身勝手な意見に過ぎないものかもしれませんよ。