サクモンガの社会活動雑記

サクモンガの社会活動雑記

僕には幼稚な文句がある。幼稚ってわかってる。でもどっかで言いたいからここで言う。
言ってみたら少しわかった。あれ?公平さに欠けているかも。
だからまずは言ってみて、だんだん直して自分の真実にたどり着きたい。
そんな社会活動雑記です。

社会になかなかなじめない僕が、なんだかんだと文句を言うために始めたブログです。
1日1投稿を課題として、他人に見られた時に公平さが失われないように考えて投稿をしています。
それによって自分の意見の矛盾に気が付き、本当に必要なことがわかりますように。

読書の定期投稿もしています。
@ジョン・ドゥの定期読書日記
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個人が持つ価値として知識があります。

 

これがうまく人に伝わると、

 

頼られるようになったり

 

一定の評価を受けられるようになります。

 

では役に立つ知識って何でしょうか?

  • 生活の豆知識
  • 話題になる小ネタ
  • 即戦力になる仕事の知識
  • スポーツなどで反射的にできる動作

いろいろあると思いますが、

 

狭量に考えてみると

 

「今一番やりたいことをいかにうまく実行できるか?」

 

に落ち着くんじゃないのかと思います。

 

そのための知識は、本を読めば手に入るかもしれませんし

 

もしかしたら20年も職人の元で修業をしないと手に入らないかもしれません。

 

でも、うまくその知識を手に入れられれば、

 

今をうまく過ごせるようになりますし

 

次もうまく過ごせるでしょう

 

次についていは「いつまでも」と思っていると足を取られるので油断禁物ですけどね。

 

ここまでできていれば、一つ能力向上ができています。

 

そんな知識ですが、最近段階があるなーということを意識し始めています。

 

新しい発見ではないのですが、

 

この意識の仕方をしたのは初めてだったので報告します。

 

ただ知っただけの知識

例えば、

 

・ちょっと本を読んでみた、

 

・他人から話を聞いてなんとなく知っている

 

・テレビで話してた

 

・少し勉強した。

 

そんな知識です。

 

これは、どれだけ集めても

 

以下の言葉が付いてしまうものです。

 

「らしい」「ようです」「みたいよ」

 

まだ自分で経験していないので、確信を持っていない状態です。

 

大量に情報を集め補強することで、なんとなく知っている気になれますが、

 

集めた知識頼りなので、細かい部分はやはり抜けていたりします。

 

このときの特徴は(難点や悪いところとは言いません)

 

あくまでも第三者視点であるということ。

 

自分の主観を交えての話や、その部分は「体験できていないので」わかりませんとは言えない状態です。

 

ただ知らないので、知ったかぶりをしてそれは〇〇であるとしか言えない状態。

 

国会答弁でつつかれる穴もこういうの多いですね。

自分の中に溶け込んだ知識

これは、
 

・実際に体験、経験して何らかの知見と主観をえた知識

 

・上記の反対になりますが情報を集めまくって、自分の欲する課題や疑問のほとんどに答えを出した知識

(わからないということも含め)

 

かなと思っています。

 

この知識は「らしい」「ようです」「みたいよ」が後ろにつくことはなく

 

「だった」「なんだよね」「だよ」と確信を持った単語を付けることができます。

 

付いたとしても、はっきりと経験とそうでない知識との差がついています。

 

だから、その知識の大小にかかわらず、

 

何らかの知見をもって話すことができる。

 

ポイントを押さえてあれば、「役に立つ知識」になると思いますし

(少なくとも本人にとっては)

 

ありのままあったことを、思ったことも含めて頭から話し始めれば一つのお話ができます

 

このブログは、後者ですね

 

ありのままあったことを頭から話している感じです。

 

個人主義の中での役立つ知識とは

今世の中は、個人主義の世界だと思っています。

 

少なくともweb上の情報はそうかなと

 

みんな同じ方向を見ているようで、実は自分に合った情報を探している

 

その中でほしい情報は、自分に合っていて確実性が高い情報

 

そんな情報に「みたいです」「かもしれない」

 

なんて書いてあっても、うーんほんとかな?と思ってしまいます。

 

それなら、誰の役に立つかわからないけれど、

 

自分の主観で「いい」と思ったことを前面に出しておきたい。

 

これなら「役立つ知識」と確信を持って言える。

 

そんな情報を経験とともに増やしていきたいと思うのです。

目標は90として、残り日数は30と掛けます

 

1日3づつできれば達成できるでしょう。

 

と、いうのが簡単な計算ですが、

 

なかなかそうはいきません。

 

とある日は都合が悪いでしょうし

 

とある日は2しかできないかもしれません

 

そもそも最初から3できるのかも怪しいです

 

だから、全力をもって5を目標に

 

日々実施して、イレギュラーに対応する

 

というのがいいのかなと思いますが

 

それも難しかったりします。

 

そもそも、5もできるのかいな?

 

それらを含めて考えると、目標は90ではないんです。

 

90+それを実行するための努力、イレギュラーへの対応

 

これが本当の数値

 

よく工数計算とかで、日割りのスケジュールがうまくいかないことがありますが、

 

そもそもの計算を間違えているんではないのかなと

 

目に見える目標以上の成果を期待している、されていることを胸に刻んで

 

120 / 30 = 4 を達成する努力が必要だと考えて

 

90を達成せねばなりません。

 

4が達成できないと判定で来たときは計画の修正を。

毎日の食事を用意するために払っているコストって

 

月単位で平均してみるとだいたい一緒ではないでしょうか?

 

僕の場合は500円がベースです。

 

お弁当で済ます場合も500円程度で買いますし。

 

カレー作りたいなーと思ったときも、だいたい500円程度で済ませます。

 

お弁当はお安いのを探せばいいですが、カレーの場合はお肉が鬼門ですね。

 

牛肉は無理。

 

そんな風に先月の家計を思って、今日のブログを書こうと思ったら

 

投資に対するコストって、どんなもんだろうと考えてしまいました。

 

投資というのは学習でもいいですし、人、会社、設備、株、FX、かけ事、なんでもいいのですが。

 

大抵はコストを掛けるほど、リターンが大きくなると思っています。

 

コストだけでいいのは、慈善事業くらい?

(給料は別確保)

 

だから投資がうまい人は「かけられる限りのコスト」をかけて

 

「リターンを最大化する」

 

といった考えかたをするのだと思いますが、

 

自分にあてはめて考えると、ちょっと言葉足らずだなと思いました。

 

特に「掛けられる限りのコスト」の部分ですが

 

「前のめりに今かけられる全力の力をかける」

 

と、これまでは翻訳していたのですが、これを実行することは無理でした。

 

だって明日からのご飯を食べるコストまではかけられませんから。

 

なので、自分に適している全力とは、

 

「具体的に未来を考えたときに、最低限の安全を確保したうえで残った部分」

 

が、全力なんだなと。

 

「最低限の安全」というのは、状況により人により違うと思いますが。

 

例えば、ご飯を食べるための余力

 

例えば、コストをかけたうえで発生する別の投資

(コストをかけないと発生しない)

 

例えば、失敗した時の再起用の余力

 

これを考えたうえで残った部分が「全力」ではないのかなと。

 

そのうえで、必死さが垣間見えてくるのは、「安全」部分を削って来た時なのかと思います。

 

ここまでくると何かに足を突っ込んでいる可能性が高い。よく周りを見て行動したほうがよさそうです。

 

逆に「安全」部分を確保して、なお投資を戸惑っている場合は二つ考えられて、

 

・その必要がないためまず投資を考えていない

 

・「安全」を高く見積もりすぎている。

(高いという判断は客観的な意見も含めて比較でわかる)

 

僕の今のコストの掛け方は今回書いたような合理性はあまりありません。どちらかといえば高く見積もりすぎているほうでしょう。

 

一応考えてはいるのですが、たぶん「安全」部分が多いのかなと思います。

 

それも大きめのコストをかけるときに、不安感に比例して大きくなる「安全」部分をベースにした見積もりでコストを考えています。

 

なんか「良さそう」「これは欲しい」と思ったときに割と躊躇せず「安全」ぎりぎりまでコストをかけるくせに、

(僕の場合主にゲーム関係ですね、VRとか超高い)

 

「必要なんだけど怖い」と思ったときは「安全」部分がむくむくと膨れ上がって、かけていいコストを圧迫していきます。

(数千円の便利ツールなど)

 

本来は後者のほうをしっかりと考えて購入すべきなのですが、なぜか選択してしまうのは前者。

 

いい加減で、理屈が通っていない人間臭い行動だなと思ってしまいます。

 

とはいえ、いまはリターンを目指しているとき

 

もう少し、かけているコストを見直して、正当なリターンを期待したいと思ったのでした。

内容はともかく、毎日なるべく長めの文章を書こうと心がけ投稿しているせいか、最近ではある程度スクロールするくらいの文章を書くことができるようになりました。

 

最初のころはポエムのようなぶつ切り+改行で言葉を並べていた文章も、今回のように横につなげて書いてもそれなりの量になるようになりました。

 

まだまだ、足りているとは思えないんですけどね。

 

冒頭で「内容はともかく」と書かせていただいたわけですがほんとにそのとおりなんです。

 

このブログでは毎日思いつくままに書いているのですが、読み返してみるとあんまり明確な主軸やストーリーががないなーと。

 

今の僕の目指したいものの一つは人に価値を届けて対価をもらえられるようになること。

 

商売の基本ではありますが、仕事一筋でやってきて価値を届ける相手が上司だった僕には決定的にこの観点が足りていません。

 

人にどうやったら価値を届けられるのか?という部分に関しては、今の世の中ほんとにたくさんの方法があると思っています。

 

駅近に店があることもその方法の一つですし、コアな商品を販売するのも特定の需要に対する方法の一つです、ネットでニーズに合った商品をお届けするのも、家を直接訪ねてお願いするのもその方法の一つでしょう。

 

と、いろいろ例を挙げてみましたが、この例の部分がいかに具体的にそして(客観性のある)確信をもって挙げられて更に実行できるかが、価値を届けて対価を得られる条件かなと思います。


じゃあ具体例を思いつくには?確信を持つにはどうしたらいいのか?

 

今はとにかく挑戦中です。

最近温かくなってきましたね、ちょっと寒い日が挟まっていたことはありましたが、手が冷たくてかじかむということは少なくなってきました。

 

僕は寒いのが苦手で、1月、2月のあいだは朝少し寝坊してもしょうがないかなとごまかしていたのですが、そろそろ暖かくなってきた今でもあまり早く起きれていません。

 

一応目覚ましは鳴っていて6:30に一度目を覚ましているのですが、そこからいつもの癖で2度寝してしまうんです。

 

寒いときの癖で、朝温かくなるギリギリまで起きられなくなってしまっているようです。

 

2度寝をしていて思うのはなんだか寝る前よりも疲れてしまうこと。のどはカラカラで、頭も重いんです。

 

たまに夢の内容を覚えているんですがなんだか頭をやたらと働かせることばかり。たぶん、いろいろとやらないといけないことを思って、頭が疲れてしまっているのではないかと思います。


昔はもっと気持ちよく怠惰に貪れたのになーと思うとちょっと辛いです。

 

原因はなんとなくわかっていて、無意識でのストレス。

 

僕は心が弱いせいか、うまくいっていないこと全般を変に負担に感じる癖があって、今がまさにその状況のようです。

 

ストレスを感じている暇があったら手を動かしなさいよというのもわかっているのですが、どうもストレスに負ける傾向が強いようです。

 

楽しかったり、次の日やることの待っていない気楽な日の睡眠が快適だったことを思うと、寝る前のリラックスが重要なのかと思ってます。

 

うまくスイッチのON・OFFを覚えて、やるときはやる休む時は休むそんな気分のいい生活をできるようになりたいです。

商品を売るのって難しいなと昨日感じました。

 

確かにお昼どきお腹のすいたときにカレーの看板を見つけたら駆け込んでしまうとは思いますが(僕はカレー好きです)、お腹いっぱいの時にステーキ出されてもいらないなーと。

 

自分の行動を鑑みるに、人が物を買うにはそれを欲しいと思う理由と、そのときなら買いたいと思うタイミングがあるのだと思います。

 

そこにフォーカスしないと物は売れない。そして単品が売れたとしても他の関連製品の購入につながることはあまりありません。買ってしまえばお客さんはもう別の商品に目が映ってしまっています。

 

うまく連鎖するのはお客さんがそういう視点を持っていた時か、商品がそういうメッセージをお客さんの目につくところに展開していたときです。

 

さっきのカレーで言えば、ランチタイム500円のワンコインでちょっと豪勢なカレー食べれますよと看板に書いてあれば僕はホイホイ入るわけですが、その後休日にわざわざ出かけてまで食べに行くかは疑問なわけです。

 

でも、その時に休日限定半額クーポンとかついていたら考えてしまいます。確かにうまかったし行ってみるか、ランチだけで出かけるのは嫌だけどショッピングもかねて行っていいかな、

 

ハードルが下がります。(とはいえ、最近はどこに行ってもクーポンもらえるのであんまり魅力は無いんですが)

 

要はお客さんの視点に立ってニーズを掘り出せているかどうか。

 

そしてそれが、お店側の「予想」とか「希望」ではなく実際にお客さんの「望み」や「迷い」にばっちり当てはまっているかどうか。

 

真実を探り出す手段を見つけて、それにしっかり当てはめていくのが大事なのだなと。

 

PS:背もたれを使わないで座れるようにいい姿勢でいよう計画も4日目になりました。

続けてはいるんですが、昨日はインナーマッスル(?背筋筋?)が微妙な筋肉痛になって辛かったです。慣れないことを始めるとこういうタイミングはありますよね。

 

お仕事っていうのは、日々の雑務という面もありますが、大抵は何か達成したい事項に向けて積み上げていきお客様に提供する作業のことを言います。

 

得てしていい結果が出るのは、プロダクトの計画がしっかりしていることも重要ですが「細かいところにも目が行き届いた」「丁寧な仕事」がされたときに多い気がしています。

 

そしてそういう丁寧な仕事をできるのは「それはそうすべき」と体で分かっている人たち。

 

仕事「めんどくさいなー」なんて思っている人には最後まで丁寧な仕事をすることはなかなかできません。一時的に頑張ることができても、労力をかけているという思いがあるうちはどこかで粗が出てしまいます。

 

こういうのはいつ身に付くのかな?と思ったのですが、僕が思うに以下のケースかなと考えました。

 

・仕事をしているうちにそう教えてもらえるタイミングがありそれを受け入れる心があった

・自然とそうすべきと理解した

 

僕は前者ながらもそれを受け入れる心が狭い側です。

 

こうやって理屈を書いているのも、ああ、この心が足りないからうまく最後まで実行することができないんだなとやっとこさ気が付いてきたからだったりします。

 

いいものを作って提供するというのは仕事の根幹。

 

素直にいいものを作るためにも、性根を叩き直さねば。

 

この性根が間違えていると、正しいことをしていてもストレスで押しつぶされてしまいます。

背筋を伸ばして座ろうと思い立ちました。

 

きっかけはこたつでノートを取ろうとしたとき、座ったままの姿勢では書けなかったこと。

 

いわゆる猫背というか、背中(腹筋?)の弱い人の座り方をしていて

 

椅子に座ると、お尻を前の方にぐぐーっとずらしてちょっとずり落ちる感じで背もたれに体重をかけています。

 

快適な椅子を用意してくれていた会社や、それを用意した自分にはグッジョブといいたいところですが、微妙に私生活に影響が出てきているんですよね

 

先ほどのこたつの場合は、体が起きていないのでテーブルの板面までが遠くてノートの場合もそうですし、食事をするときも不便です。(逆にだらっとしたいときは完璧です、でもテレビは見ずらいかも)

 

そして、もっとやばいなと思ったのが「足を延ばして座る体制がつらい」ということです。

 

なんとか直そうと座るときは背筋を伸ばして頑張っているところなんですが、こたつで座ろうと思ったら、胡坐か足を延ばして座るかのどちらかが選択肢なわけですが

 

座椅子を外したら10分以上足を延ばして座っていることができませんでした。

 

最初のうちはあまり問題ないのですが、5分もするとだんだんお尻の部分がしびれてきてそれがだんだんと桃全体に広がります。そこまでくると腹筋、背筋もちょっと辛くなってきて、努力しないと後ろに倒れこんでしまう。

 

身体が硬くなって、インナーマッスル(?)が弱くなっちゃっているみたいです。

 

普通に座るだけでほぼ筋トレみたいになっている状況ですが、背筋のいい人はこれを日常的にやっている。

 

なんとかかんとか、足を延ばして長時間座れるようになりたいです。

 

僕の母親はいわゆるパソコンできない人です。

 

電話で話をしていても話がかみ合わず辛かったので、一度はパソコンのことを教えようと思ったことがありました。

 

とりあえず帰省したときに、フォルダと、ファイルとインターネットの検索を教えてみたのですが。。。(それも何回かにわたって)

 

梨の礫でした

 

最後には嫌がられました。

 

インターネットの検索もあまりお好きでない様子で、基本的な生活はすべてアナログで行っているようです。

 

で、そんな母から今日電話があって、あんたネットで投資信託買えない?のとのこと。

 

担当者が変わったとかで電話がかかってきたようなのですが、手数料が高いのが気になって相談をしてきたようです。

 

そうなの?ふーんと、いつものように相槌を打つだけで済まそうかと思っていたら、なんかですね、意外と突っ込んだ話をしてくるのです。

 

手数料がどうとか、最近値上がりをしているけど、丁度決算日だから少し安くなるだとか。

 

ほとんどはその担当者との話で得た知識なのでしょうが、ぺらぺらと途切れなく話してくる様は検索すらしないあの母とは思えません。


自分がかかわったことに関しては、割と突っ込んで覚えているんですよね、体験型主体というか。

 

料理がうまかったり、家事をしっかりこなしていたり、庭がきれいだったりなんだかんだで人生を楽しんでいるようだったり。

 

確かに馬が合わない母親ではありますが、まあこれが母親なんだろうなとふと思い返した電話でした。

 

ちなみに今日のハイライトは「IDとかパスワードとか難しいの」と聞いたときに、いろいろ言いたいのを飲み込んで返事を「うん」で済ませた一幕でした。

自由自在に書くのが好きで、最近あまりノートを使っていませんでした。

 

ノートがわりに使っていたのは、A4のコピー用紙です。

 

1度購入してしまえば量的にはまずなくなることはありませんし、意外とどこでも手に入ります。

 

外に出ているときはクリアフォルダに何枚か入れておけばいいですしね。

 

安価であることと捨ててもいいという気安さから、重宝していたのですが一つ問題が。

 

あの時書いたあのメモはどこにいったっけ?

 

書くのは好きなので、安易に書きまくっていたのですが、気が付いたらコピー用紙のメモの山です。

 

1週間、1ヵ月とさかのぼって探そうと思ったときに全然整理されていないので、全部ひっくり返して探さないといけません。

 

よしんば探せたとしても、それにつながったメモはどこに行ったものか、、、

 

と、悩んだ末ノートを使うことにしました。

 

確かに安易さはなくなりましたが、ノートには上記悩みを解決する力があります。

 

通常ノートは先頭から後ろに向かって書いていくため、あの時のあれはどこだっけと探すときも、ただ前の部分を探せばいいだけ。

 

大体の時間感覚があれば勘で探すこともできますし、コピー用紙に比べて薄いのでコンパクト。

 

そう思うとコピー用紙は便利で楽だけど、安易さに流されていたなと。