私が懸念していたことは、

自分より波動の低い人と関わって、私が波動を落とさずに関われるかどうか。



私が認識している1番の弱点は、プロテクションの弱さ。



そして案の定、波動の低い人と関わった結果、闇落ちが達成されました、笑





私の友人は、私の父親と似ています。友人と父親は面識がありません。

なのに、何故、クズな父親と同じ行動を取れるのか、
何故、私は身内と縁を切ったのに、結局同じような人を引き寄せるのか…。





私はいつからか、人間という生き物に「思いやりの精神」を植え付けることに力を注いできました…。

それは、私のような被害者を出したくなかったからです。

私の祖母も父親も母親も、自分の都合の良い時にだけ物を与えたり、行動を起こしたりしました。

しかし、私が困っている時には一切助けてくれない人間でした。



困っている時に困っている人を助けないで、私が困ってない時には自己中心的な、無駄に一方的な思いやりを炸裂させてくる人間…

そんな人間、生きてる価値あるのか?、と。

誰かが困ってる時に手を差し伸べられるのが当たり前であり、常識ではないか?、と。
(借金の肩代わりとか、危ないものは助けられないこともあります)



人が困っているときには助けないで、自分の機嫌の良い時だけ、自分の都合で思いやりを発動する?なんだそれ?と。



現在、世界一子どもが幸せだと言われている国は、オランダです。

オランダの教育方針の1つには「困っている時に(助けて)、と言える人間になりなさい」というのがあります。

日本は「人に迷惑をかけない」ことを大事にしているように思います。



しかし、日本人が人に助けを求めるのが下手かと言うと、私はそうではないと思うのです。

困っているから助けて!と言った時に、助けてくれないのが日本人です。

それは私の身内だけじゃない。社会に出てもそういう人間は沢山いました。

自分さえ良ければいい、と。

友人もこう言いました。
「自分さえ良ければ、他の人のことなんてどうでもいい」

 

もし、私も、同じような、そんな低レベルな考え方しかしていない生き方をしてきたならば、そういう人が引き寄せられて普通だと思います。
 


けれど、私は、そんな生き方はしてきていない。

 

どれだけ人間に思いやりを見せつけてきたか、教えてきたか、仕事1つ困っている人を助けてきたか…

思いやりのない人間にどれだけ喧嘩を挑んだことか…



そもそもキチガイな環境で育った私に思いやりがあって、なぜ普通の環境で育ったような人間にはそれが身についていないのか?



かと思えばキチガイな環境で育った同じ出身にも思いやりがないし?



そして友人は私に言いました。

自分のことを特別だと思い込みすぎている、と。

そして違う時期には「発達障害だからそんなんなんだろ!」と。

そんなん…という表現は解釈が難しいところですが、普通ではないと言いたいなら。

特別と普通を否定したので、必然的に私は「無価値」となりました。





私が無価値だから母はご飯を与えてくれなかった。

私が無価値だから父は暴力を振るってきた。

私が無価値だから祖母は私をキチガイだと言った。

 

…日本語の作りとしては、辻褄の良い納得できる文章です。



しかし…無価値を思えば思うほどに神の愛を感じ、

宇宙にアクセスすればいつも天使がビューンと飛んできて、ハグしてくれるのです。



そして、じゃあ、私も、もう他人のことなんて知らない。

自分だけ得すれば良いと思って生きてやる!と思って、「私さえ良ければ周りなんてどうでもいい」と。

繰り返し、

毎日、

念じていました。



けれど…私が、何度それを思って私に教え込ませても、

私の中核が拒否するのです。



そして、私はわかったことが2つあります。

幼少期の苦労した私を助けたい(今後地球に来る人に同じ思いをさせたくない)


→その為には思いやりのある人間を増やさなければならない


→(その信念があるから)思いやりのない人間が周りに現れる


→私は必死に思いやりを見せて、聞かせて、その人に身につくように頑張る


→しかし、思いやりを植え付けることに成功したことは人生で1度もない…

大人になっても子ども時代のパラレルワールド状態。





ということは、

これだけやってきて人間は変わらなかったのだし、

信念によって変な引き寄せを起こして、


結果、私を大切にしない人が現れるのだから、



どちらにしても、もう、


人間に思いやりを植え付けることは諦めなければならない。

手放さなければいけない。





私は私が困っている時に、私に手を差し伸べてくれる人を見つけよう。