ロキソニンの効き目がこんなに凄いとはおもわなかった。二日酔いからくる頭痛を完全に無かったものにしてくれる。頭痛なんて最初から、無かったんだよ。
それなのに、こんな時間に眠れなくて読書している。
最近はまっている穂村弘さん。
わたしは特に読書家というわけではないから好きな作家をひととおり読んだら次に好きな作家が見つかるまで読書をしない時期がくる。久々にハマる人が見つかり、脳内がすっかり穂村さん節。
暇な時や自分のしあわせと他者の目的が嚼み合わない時、読書は必要なものだ。
世界から邪魔なとき、人はひとりになるしかない。
穂村さんのこじれエッセイを見て思う、こんなに面白く魅力的な文章を書いても、たぶんこの人は相当変わっているし、多分そんなにもてない。
私も人よりは(私も人だけど)変わっているらしく、稀に私の変な部分に恋をしてくれた場合、わたしの発言や文章など(このアメブロとか)に異様な興味を示してくれる恋愛豊作期がある。
しかし私は知っている。よほどのテクニックがない限り、それは長続きしないことを。
だから私がどんなに面白いブログを書いたとしても、以前ならわかりあった風に(真実はそうでもない)笑い合ってくれた人も、今ではこのブログもチェックなどしていないだろう。恋とはなんと儚けり。
だからこそというか、こんなしみったれたエピソードを自分一人だけのものにしておくのは何だか面白くない。だから書くのを止められない。楽しくないことを自分の生活の引出しに閉まっておくのは何だかシャクだ。ばらまいてやれ。
これもひとつの自己顕示解放だ。興味なければ見なければいい。
穂村さんの言う、自分に直接関係ないことには全く興味がもてない、例えば政治や芸能界など。に共感する。「今ここ」の裏側にある「きらきら」の存在は知っていても、それはあくまでも自分の中にある世界であって、実際の世界はただそこにあるだけだ。
だから自分のチャンネルと共鳴する本なり何かを見つけて、たのしく勘違いして生きていく。
本当に欲しいもの・本当に怖いことは多分みんなちがう。私がこの世で一番こわいのは、遅刻して教室の後ろ入り口を開けて入る時に向けられる【お呼びでない視線】である。
それは今でも変わらない。だから仕事を休めない。お前ごときが休んで、出てきたときに優しくされると思ってるのか。
本当はもっとだらだらしたい。
二日酔いでだらだらしても愛されるような人間になりたい。