先週末の日曜日は久々に当地にお住まいの日本人会員も参加だった。名古屋の実家の御父様の介護で5ヶ月間日本へ戻っており、この度戻られた。
彼女を含めて着付けができて薄茶を点てられる会員は六名。中々成長が見えて来た。
今回は当地の州立大学マニトバ大学の博士課程で平和と紛争をテーマに研究されている研究者から参観の依頼連絡があり会員も快く受け入れてくださったので今回来ていただくことになった。
彼の研究の中で本来は戦闘のプロであるサムライ文化の中に平和を追求する茶がどの様に受け入れられて来たのかを体験してみたかったそうだ。基本的にどこまでお茶に関する知識を持っているかわからなかったので、まずは千利休からなる長い歴史の中で、表千家裏千家遠州流などの茶道流派が発生し、その中でもお茶に重点を置いた表裏千家そして武家に好まれた遠州流茶道等の話をさせていただいた。
一通りお茶の練習を皆さんされた後、彼には次客の席に泊まっていただき、そこでお茶をたしなんでもらった。もちろん、話はお茶にとどまらず、鉄砲の話にも及んだ。というのも、歴史的に戦国時代に有名になった。鉄砲の名主たちは、江戸時代にはお茶をたしなむようになっていったことが歴史でわかる。私自身もお茶をたしなみながら、なぜ鉄砲とお茶がそこまでかつ数の関わりを持ってきたのかを調べている。
その中で見えてくるのは、例えば禅宗にある仏教の教え、津田流口訣記の中に出てくる歌として、沢庵聖人の歌がある。心こそ心迷わす心なれ、心に心心許すなと言う1首であるが、この歌はもちろん茶道の中でも大変重要なことであると紹介されています。
この沢庵承認の歌でありますが、非常に感慨深い歌であります。というのも、自分の心が1番の敵であると言うことなのです。鉄砲を構え、相手を壱発で仕留めると言うことを考えるときに、私の祖母がよく言っていた言葉で人をやめると言うことによる心の重み、その人の命を取ることに対して、日本人と言うのは大変気を遣ってきたのだと私は思います。そのために、大名や中級上級武士と言うのは、大体の場合が30代後半で出家し、仏法の世界に入っていくと言うことが多く見られてきました。群馬県富岡で幕末まで郷士をしていたと言われる。私の母方の黒田家の墓石には無縫塔形が幾つかあり先祖の中に江戸期に出家している方が何人かいる事がわかります。多くの戦国時代を研究している方々に、こういう発想が受け入れづらいと言う点があると言う事はわかっておりますが、やはり日本人と言うのは、人の命を殺めると言うことに対して非常に気を遣っていたのだなと言うのは、史跡から見ることができます。
彼自身、博士課程に入る前は、カナダの大工として15年間、実務に時間を費やし、専門的な知識を勉強してきたと言う。現在指示している先生も奥様が日本人でいらして、研究分野の先行は日本の建築であると言うことですそのことに関して私はすぐにピンときて、私が現在制作中の台木。そして伝家の鉄砲を紹介し、これらは大工の皆さんが製作になったんだと言う話をしました。ノミの扱い、削り出しの精度や完成度などを見た彼は、さすがの日本の大工だと喜んでいました。
その後、拙宅の茶庭を紹介し、それぞれの植物に意味があることを紹介した。茶庭にある茶花または草花と言うものは、1月から12月までの季節を紹介する目的を持って植えられているから、松、梅、花菖蒲、柳、ススキなどすべてに理由があることを紹介して、彼も納得していた。カナダで日本の庭園を模したようなものがいくつか存在するが、私からするとまずは観点として季節がない。そしてもう一つが見る立場のどのような観点から見ているのかと言う基礎も備わっていない場合が多いので、ぜひ彼にはそういう学びをしてもらいたかった。この説明をすると非常に腑に落ちたと、またこれも感謝してくださったようだ。
鉄砲銃身の製作に苦慮している話をすると彼の知り合いに鍛冶屋がいるそうで、その人の紹介をしてもらうことになった。今回もまた実のあるお茶のお稽古になったと、私自身は嬉しくなった。

