信夫郡矢野目の中屋敷といえば中島庄右衛門家というのは矢野目周辺では一般常識だそうだ。そんな中島家であるが中島庄右衛門が矢野目の郷土史に登場するのは1640年から1650年ごろだという。それ以前の文献には信夫郡には中島と通ずる史料はなくいつ頃中島家が矢野目の古い陣屋跡に中屋敷を構えたのかはわからない。屋敷を持っていた家族は桃山時代には地検帳に江戸時代には分限帳に掲載されているはずなので今度調べてみようと思う。私の大叔父の話では武田家臣とされていたが、武田家臣には中島庄右衛門の名前はなく、また上杉の家臣という話も中島庄右衛門の名前は見つかっていない。

 

 

中島庄右衛門という名前は国会デジタルライブラリーでの全文検索では数件引っかかった。明治大正昭和初期においては仙台での塗装業者や自警団の団員等としての名前で見ることができたが、仙台と信夫では距離があるため関係はないだろう。江戸時代以前の文書では唯一加藤嘉明公の歴史書に掲載されているのを見つけることができた。しかし、その一分だけを読んでいると伊予の国の領主であった加藤嘉明の家臣として中島庄右衛門が登場している。まったく東北と関係がないとみえる。また加藤嘉明家臣の中島庄右衛門の家臣二名が慶長の役の際にトラを鉄炮で仕留め、嘉明に献上するなどの逸話が紹介されていた。もう一つ同じ頃の歴史をまとめた関原軍記大成の中には三津浦夜襲には「堀部主膳、佃治郎兵衛、黒田九兵衛、中島庄右衛門、安達半左エ門など城にあれば。。。」などと紹介されているがこれも伊予の話である。蛇足だが、私の苗字は「安達」、父方祖母が「中島」、そして母方祖母が「黒田」で3分の4の親族の苗字がこの戦いでは偶々出てきたのは笑ってしまった。ここの母方祖父の柴田が出てくれば総祖父母すべての苗字が出てきていた(笑)。因みに私の親族では母方柴田だけが東北出身ではなく九州の武士と江戸の薩摩琵琶の家元だ。

しかしこの全く関係のない伊予の中島が実は江戸時代に会津に移っていた事がこの本を読んでいたところ分かった。加藤嘉明は藤堂高虎公の推薦で会津藩の初代藩主になっている。この時加藤嘉明の歴史書によれば家臣総出で伊予から転出し、家臣ごと会津に移ったというのだ。昭和5年発行の伊予史談会発行の加藤嘉明公の最後の付録には初代会津藩士一覧が記載されており、確かにこれらの歴史に登場した名前やその親族と思われる名前が見られた。因みにこの文書によれば安達半左エ門は討ち死にしており、嘉明から書簡が送られている。(ウィキペディアの足立重信の記述と異なるのだがどちらが正しいのかはわからないがウィキペディアの情報の適当さは研究を始めてよくわかっている。)このあと加藤氏はお家騒動(会津騒動)があり、1643年に会津藩を返上している。信夫郡に中島庄右衛門が現れたとする矢野目の郷土資料の時期(1640年から1650年の間)と重なる偶然もまた面白い。昭和40年代に撮られた中島家の集まりでは若松の武士を讃える祝詞を上げていたが、もしかするとこの祝詞は戊辰ではなくそれより古くから伝わる祝詞だったのかもしれない。親族が斉唱する歌は壮観である。

 

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矢野目に在った旧中島庄右衛門邸「中屋敷」をお濠から望む。手前に止まっているセダンから屋敷の大きさが分かる。

 

実際のところ相変わらず中島庄右衛門がどこから突然1640年代に信夫に現れたのかはわからなかった。三津浦の夜襲では宍戸氏が毛利の指示で、嘉明が留守の伊予の城を攻め込むが、この宍戸という名前の鉄砲鍛冶が中島家の鉄砲を作っていた偶然もまた面白いと感じる日本史である。因みにこの三津浦の夜襲は昔話の鬼退治の様な内容で面白い。日本には同じ苗字の人が大変多いのでこういう偶然はよくある事であるのいまだ推測の域を出ないことは間違いない。今のところ中島庄右衛門がなぜ「呪われた薙刀」や槍、弓矢、刀剣、鉄砲を嗜んでいたのかはわかっていない。受け継いだ鉄炮の台木が江戸期の物で250年ほど経っている事を考えると大変几帳面に整備されていたことは確かである。私の知る限り農家の蔵に保管されていた鉄砲の台木の状態は一般的に虫食いや腐食が進んでいる。百姓一揆でも率いていたのだろうか。