この度ついに胴金を復元することになった。銅金は台木を射撃の反動から守り強い衝撃による台木の亀裂などを防ぐ意味がある部品だ。まさにベルトや帯の役割をしており、カラクリの地板も一部胴金で固定されている。

 

最古のインドゴア鉄砲の胴金

胴金にもいくつかの種類があるがインドゴア鉄砲の胴金は上半分だけを覆う様な形状をしており、鷹の尾は無い。このあたりは当時の欧州式の鉄砲特にフランクフルト銃などとは異なる。インドゴアは元々はイスラム系の領主がいた事で早い時期から鉄砲を生産し始めていた様で、ゴアには1万挺屋敷と言う武器倉庫が存在しポルトガルが進行した際に鉄砲を接収したと言う話が今に伝わる。当時保管されていた鉄砲がどの様な形をしていたかはわからないが最も古い個体はドレスデン博物館に保管されている。

 

その鉄砲は靖國神社遊就館に所蔵されている鉄砲の一つに形状がよく似ている事からおそらく靖國神社の物はゴア鉄砲の初期の日本製コピーだろう。ゴアの鉄砲はその後おそらく種子島を経由して日本へ紹介されており、火挟、松葉金、イボ隠しも形式など日本の鉄砲に似ている形態を呈する。

 

ドレスデン博物館

所蔵番号G1116


解説文抄訳

「トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチは、1587年にザクセン選帝侯クリスチャン1世にこの鉄砲を贈呈したという。この鉄砲にはポルトガル、イスラム教徒、インド、日本の影響が散見される。ラッカーによる装飾的な図画が施されている。現存する最古のポルトガルと日本関係を持った銃の1つであり、同時にヨーロッパの歴史にとって非常に重要な発見の偉大な航海の時の重要な証拠である。」

 

福島信夫住宍戸作の鉄炮の胴金製作

 

さてまずは銅金に使われる黄銅板をとかした真鍮で作り形を形成する。

 

長さを確認して切断。両端は曲げやすくするため角を削ってある。

 

万力を使い台木の側面に合わせて曲げていく。

 

 

曲げが終われば今度は銀蝋付を角に施し、ヤスリがけで装飾形成をする。

 

幾度か実際に装着して確認する。

 

車庫での作業は寒いのでリビングで。

 

完成した胴金と装着された鉄砲。旧所有者の祖母の遺影にお供えした。

 

前日製作したニオイヒバの火縄も装着。

 

実際の銃身を製作するまで最終仕上げはしない事にしたので半製品状態で暫く保管することになった。

 

中島庄右衛門家来の信夫住宍戸◻︎◻︎作の鉄砲の特徴

ほぼ復元完成した福島信夫住宍戸□□作の中島庄右衛門家伝来の鉄砲の全景。仙台筒や信夫住宍戸の鉄炮の意匠は装飾がほとんどない。この鉄砲は尾栓ネジのはいる部分の大きさなどから恐らく5匁~6匁だったと考えられる。そのため銃身の木口は1寸1分(33ミリほど)と分銅紋等の仙台筒や他の福島の鉄炮の3.5匁から4匁の物(9分から1寸弱)に比べると割合太い。これは伊達相馬鉄砲館で拝見した仙台筒や二本松国友などに比較してもやはり家伝の鉄炮は大ぶりであると感じられた。さすがに10匁ほどの大きさはないがやはりその間の太さがある。戦国時代中期に近畿地方で出回っていた鉄砲は2.5匁~3匁筒で細く短いものが多い。

 

戦国後期から江戸にかけて4匁(一両)から6匁筒で銃身長が三尺三寸から三尺六寸が長距離射撃用に用いられるようになった。(口訣記より)東北大学所蔵の鉄炮伝書の中で津田流と同じ内容を見ることができる伝書にも同じように匁が大きくなれば銃身長が長くなるように書いてある。東北大学所蔵の伝書は恐らく津田流御流儀の派生ではないかと思われる。


家伝の鉄炮はその形状から俗にゆう狭間筒ではないが、砲術でいう町積打ち用(1町から5町すなわち108メートルから540メートルの長距離射撃)を目的として製作された鉄砲である可能性は高い。津田流御流儀は長距離射撃で名を馳せた毛利高政の流派であるからその影響が仙台の周りの藩に残った可能性は高い。また東北で散見される不易流炮術。不易とは古くから変わらない物という意味の流派名であるが、この流派も津田流御流儀の元目当てを改造して用いている点は興味深い。

 

残す復元部品は銃身を除けば引き金と肩紐用の金輪だけになった。