写真というものが実用的な写実画として登場するのは1839年の銀板写真の登場が初めてだとされている。その写真の技術は1843年には日本に上陸していた。世界でも有数の金銀鉱山を持つ豪族揃い日本は欧州特にオランダの上客の中の上客であったわけであるから、写真機が出来てからすぐにこの超高級機材を日本に欧州の何倍の値段で売りに来たのだろう。島津家はその写真機に可能性を感じ、数年後にオランダ商人から写真機を購入し、分解研究を命じた。
多くの日本人は当時写真に写るのを嫌がったそうだ、それも自分と全く同じ顔体をしたその一時を盗まれるように感じたためであろう。旧来の日本人は人生は儚くも先祖より頂いた一時(ひととき)であり、行いが良ければ人として生まれ戻ることができると本当に考えていたのだろう。善徳だけを尽くしてきた人でなければ、写真にママの自分が残る事に違和感を持たなかったに違いないがそんな人は多くはなかっただろう。いかにも日本人らしい考え方である。また当時の銀板写真は今のカメラの様に自動補正を加えられた現実の見掛けとは異なるものではなく、白黒ながらごく忠実にその情景を表すことができた為であろう。

銀板写真の例。私の妻の四代の大叔父ルイ・リエルの肖像写真(1870年代撮影)ルイ・リエルはカナダのフランス系混血人種人権活動家で、当時「白人以外は人に非ず」という前提にあった英領カナダに於いて、メティと呼ばれる原住民との混血人種に公民権等を認めるように政府に働きかけた。サスカチェワンでは武装蜂起等も行った上、末期にはキリスト教の神のお告げを聞いたと言った振る舞いが多くなり、精神面に異常を来し、英国政府からテロリストとされた。英国政府に対する反逆罪で1885年11月16日に絞首刑とされた。実はマニトバ州は当時、英国王国立企業とその植民とフランス革命前に移民していた旧フランス人で紛争状態にあった。このルイリエルの処刑はフランス系移民からの猛反発をうみ英国王国の国力低下もあいまりアングロ人独占の政治に終わりを持たらした。その頃に、フランス領内St. Vital町という街の町長、警察署長、郵便局長を兼務していた弟のジョセフ・リエル(妻の高祖父)の家に兄ルイの亡骸が匿われたという。私の義母はその家で生まれ育った。後の世に州議会議事堂前に州父として銅像がってられるとは誰も思いもよらなかっただろう。
写真というのはその時のその人の気持ちを如実に表す。これが肖像画との違いである。その一刹那のその人の気持ち、考え、見ている光景が写真に残るのである。喜怒哀楽が写真に残る。活動を始めたばかりのルイの目には怒りと不安そして正義感が満ち溢れている。これが日本人が感じた御霊を「撮られる」という感覚だったのであろう。私が須川先生に初めてお会いしてお話をしている写真を見て家内がものすごくうれしそうでよかったねと言っていた。言葉にはあまり表現できなかったが、あの時は本当にうれしかったのだ。
亡骸の目は無常
今インターネット上に流れてくる紛争地域の映像や画像は日本での戦争記録を思い起こし見るに堪えないと私は感じる。しかし、戦争の是非を現実を見ずして語ってはならないと思うのである。生後半年から5歳前後、私の息子達と同じくらいの子供たちが毎日死んでいっている。足がもげ、脳みそがこぼれ落ち、顔の皮が削げ落ちている写真や映像である。その子供たちはボンヤリと光を失った虚ろな目をカメラに向けている。まさに命が途絶える瞬間の眼(まなこ)である。その家族に生を受け、家族親族でお祝いをされ、愛されて育ち、物事が分かり始めた頃の子供の眼から消えていく人霊が写真に見えるのだ。
過密地域に於いて、一人では行動できないこういった子供たちが、爆破されコンクリートの構造物の下敷きになっている。最新の人口分布調査によればガザ地区の人口の50%が19歳以下、そのうちの60%が10歳以下の子供達である。同じような光景を東京や仙台で目の当たりにしたであろう私の曽祖父(中島)の顔つきの変貌はそれを如実に表す。左上から陸軍第78連隊所属時(10代後半)、特殊憲兵任務に配属になっていたスーツ姿の時期(20代~)と最後の帝都や仙台の戦災処理に当たっていた頃(~30代)の曽祖父の写真である。
ロバート・マクナマラ回顧録映画
戦争になれば何千という子供達の命を奪っても罪に問われない―。その戦争に勝つことでその罪を帳消しにできるのである「勝てば官軍負ければ賊軍」の世界なのだ。戦時中は日本の戦略爆撃作戦の戦功検証等の担当責任者で後のケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラは日本との戦いをこう回顧している。
以下抄訳
「東京は燃えていた。東京は木材で作られた住宅が立ち並ぶ街だ。一晩で老若男女問わず我々は10万の一般市民を燃やしたのだ。」
問: 焼夷弾を用いると言う判断はどこから来たのか?
「問題は焼夷弾ではなかった。問題は“戦争に勝つためならば、一晩で10万人の人々を焼き殺すべきなのか?”東京を皮切りに我々はルメイ空将の指揮の元、我々は日本の67都市を焼却していった。横浜はクリーブランドと同じ大きさだ、58%のクリーブランドの市街地と同等の町が破壊した。東京はニューヨークと同じ規模の街だ、51%の東京を焼却した。シャナヌガと同規模の富山に至っては99%の居住地を焼却した。(67都市の一般人の60-90%を焼き殺した後に)追い打ちをかけるように我々は核爆弾を二発落としたのだ(戦略計算上必要の無い攻撃であったー)。私は戦争に規則を設けるべきだと考える。それは戦争の手段である攻撃と達成すべき目的に釣り合いをとるという事だ。人類は過の戦争において、そして現在において戦争の本質的な規則を設けてこなかった。一晩で10万人の人を焼き殺してはいけない等とどのルールブックに書いてあろうか?ルメイ空将は私にこういった、もし我々が負ければ我々は戦犯として裁かれるだろう。ルメイ空将は自らが行っている攻撃作戦が戦犯であると認識していた(それでも計画を推し進めた)。そして私自身も戦争犯罪を認識しながら作戦に参加していたのだ。」
「(人は)何を以て負ければ不道徳となり、勝てば不道徳とならないとするのか―。」
「The Fog of War : 2003年」 Lesson 4, 5より抄訳。日本語字幕版の映像は以下のリンクからご覧いただけます。


